「低い株価評価」が交渉の出発点となってしまう
売り手が良い条件を勝ち取りにくい状況を作り出している要因は、ほかにもあります。それは、M&A仲介会社の株価算定書です。具体的には、①そもそもM&A仲介会社の提供する株価算定が買い手の評価目線と異なるという問題と、②その株価算定書が売り手と買い手双方に開示される実務の問題とがあります。
おさらいになりますが、仲介業界で広く採用されている「年倍(買)法」という株価評価手法は、営業利益(またはその他利益指標)の数年分に純資産を加算して株式価値を計算する簡便法です。
【年倍(買)法に基づく株式価値 = 営業利益(またはその他利益指標)の数年分 + 時価修正純資産】
計算式が非常に簡単で理解がしやすい計算方法であり、M&A仲介業界で広く使われています。しかし、同法はファイナンス理論的に何ら根拠がなく、買い手はそもそも年倍法に基づく株価評価をもとに意思決定することはありません。利益指標に乗ずる年数は業界ごとに相場が固定的に決まっており、成長企業ほど評価が低くなってしまう問題点なども孕んでいます。
M&A仲介サービスにおいては、この何ら論拠もなく、買い手の評価手法でもない年倍法で試算した株式評価レポートが売り手・買い手の双方に開示され、実質的に交渉の出発点として大きな意味を持ってしまっているケースが散見されます。これが、仲介会社の株価算定書のもう1つの大きな問題です。こうしたアプローチは、売り手にとって正当な価値での事業売却を実現することを遠ざけるものであり、オーナー経営者としては避けるべきです。参考情報としての株価は、買い手が実際に行う評価手法を用いて試算することが重要です(過去記事『うちの会社、いくらで売却できる?オーナー経営者が「好条件」でM&Aするための“株式評価手法”【専門家が解説】』をご参照ください) 。
さらにいえば、買い手の評価手法で試算した株価を目標とするのではなく、それを上回る良い条件を勝ち取るために、買い手の間の競争環境をいかに作って売却プロセスを進めるかが重要なのです。
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売り手に過度な負担が強いられるリスク
次に、買い手からの提案に応じる形で事業売却を進めた場合に、売り手に過度な負担が強いられてしまうリスクについて解説します。
多くのオーナー経営者にとって事業売却は一世一代のイベントですから当然、勝手がわからないことばかりであるはずです。特に、専門業者であるM&A仲介会社や、M&A経験のある買い手と比較すると大きな情報格差が存在するといえます。売却価格以外の条件もM&Aの成否を分ける重要な位置付けですが、M&A仲介サービスは、中立の立場で売り手と買い手をマッチングするサービス。条件交渉において売り手を守る立場にはありません。
当社では、売り手を守る役割としてセカンド・オピニオン・サービスを提供するケースもありますが、実際に当社がセカンド・オピニオンを提供した案件においても、M&A仲介会社が支援するなかで、売り手に過度な負担が課されているケースが散見されます。M&A仲介会社の採用する株式譲渡契約書の雛形自体が買い手に有利になっており、売り手に過度なリスク負担を強いるものとなっているケースも散見されるため、注意が必要です(株式譲渡契約書に潜むリスクについては、次回以降で詳説します)。
ここで、最近の当社の支援案件から具体例を紹介しましょう。
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〈B社のケース〉
B社はある大手M&A仲介会社の支援で事業売却を実現しました。ところが、無事に売却を実現できて安心していたのも束の間、譲渡から2ヵ月後に買い手から損害賠償を請求されてしまいます。具体的には、「残業代の制度設計を買主の制度に変更した結果、未払賃金を支払うことになったので賠償せよ」というものでした。
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本件において、対象会社と買い手企業における残業代の制度設計は異なるものでした。具体的には、対象会社の制度下においては未払残業代が発生していなかったものの、買い手の制度に移行した場合には未払残業代が発生するといった状況でした。買い手は法務・労務に関するデューデリジェンスを実施し、売主も関連する情報開示を行なっていましたから、買い手はその事実を把握していたものと思われます。買い手としては、上記の未払残業代を価格交渉上の論点とはせず、事後の損害賠償請求を行う選択をしたのです。
これを可能にした原因は、株式譲渡契約書において売り手を損害賠償請求から守る手当てをしていなかったことでした。
株式譲渡契約書においては、当事者が取引相手に対して一定の事実が真実あるいは正確であることを表明し、保証する「表明保証条項」が定められます。そして、表明保証違反が見つかった場合の責任が補償条項として定められます。簡単にいうと、当事者としての責任範囲を定めるものです。
本件でM&A仲介会社がドラフトした株式譲渡契約書の補償条項においては、表明保証違反が見つかった場合でも、一定の場合には損害賠償義務を免除する規定が定められていませんでした。例えば、「デューデリジェンス等で買主が認識していた事項については補償義務の対象にしない」(アンチ・サンドバッキング条項)方法や、「買主の社内規則や制度への変更に伴い対象会社に発生する追加費用は除く」とする方法など、売り手の補償義務の対象を制限する手当も考えられたでしょう。なお、買主が売主に対して損害賠償請求をできる期間も無期限となっていました。
M&A仲介サービスは、あくまでも中立の立場で売り手と買い手をマッチングするサービスです。売り手を守る交渉支援はその構造上、提供することができません。このことを理解せずにM&A仲介サービスを利用する場合、売り手オーナーの期待するサービスと、M&A仲介サービスが提供できる支援の現実との間に大きな乖離が生じてしまうでしょう。
売り手が自分や会社を守るためには、やはり売り手専属でM&Aを支援するファイナンシャル・アドバイザー(FA)を起用することが有効な選択肢であるということを覚えておいていただければと思います。