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 イギリスの高速鉄道「HS2」計画の迷走は、同国にとって非常に厳しい教訓となっている。現地メディアは「HS2の推進派たちは、日本やフランスに匹敵する鉄道を夢見ていた」とするが、計画は大きく変貌し、当初の目的を達成できそうにない。

 HS2は当初、ロンドンからバーミンガムへ至り、さらに東西に分かれて北部の主要都市までつながる「Y」字形の新線構想だった。しかし、楽観的すぎた費用の見積もりや、政治家による度重なる計画変更など問題が重なり、当初の目的である北部地域の振興は遠ざかった。多くの区間で計画が中止され、ロンドン近郊の利便性向上にとどまる見込みだ。

◆遅れていたイギリスの輸送網

 イギリスは日本やフランスに比べ、高速鉄道網の整備で遅れを取っており、「蒸気機関車を世界に送り出した国であるにもかかわらず」とも言われる皮肉な状況になっている。既存鉄道の運賃も高止まりが続き、遅延が慢性化していた。こうした国民の不満を解消すべく、イギリス政府は高速鉄道「HS2」の建設を進めてきた。

 期待のHS2だったが、計画は今、足踏み状態に近い。当初の予算の約2倍の費用をかけながら、計画された区間のほぼ半分しか実現の見込みが立たない状況だ。労働党政権が2010年5月にHS2建設を正式に提案した際、在来線の増設とほぼ同じコストで高速線が建設できるとの触れ込みだった。しかし、実際のコストは予想を大きく上回った。

 厳しい現実を受け、ロンドンから遠い北部区間の計画が次々に中止されたほか、ロンドン中心部への乗り入れさえ一時は見送られることになった。BBC(9月16日)は、「約束されていた区間が半分になった一方、納税者たちは当初予算の2倍以上の金額を負担することになる」と指摘する。バーミンガムから西ロンドン間の一部区間のみが、最大878億ポンド(約17兆円)で実現する見通しとなっている。同記事は、「これほど大規模に予算をオーバーし、約束された以上の成果がほとんど得られないプロジェクトはほとんどない」と論じる。

 HS2計画を「悲惨な失敗」と非難する現政権のヘイグ運輸相は、高騰するコストを抑制するため、HS2を建設する大手合弁会社との契約の再交渉を検討している

◆切り捨てられた北部地域

 北部路線の中止に伴い、このプロジェクトから恩恵を受けるはずだったイングランド北部の人々や事業者らから反発の声が上がった。HS2の当初の目的だった地域格差の是正は達成できなくなる。イギリス政府は2012年の報告書で、HS2により最大60億ポンドの経済効果が生じると試算していた。こうした事業のメリットは大きく損なわれつつある。

計画中止で短くなる区間|Cnbrb / Wikimedia Commons

 いまや残されているのは、世界でもトップレベルに高くつく区間だ。エコノミスト誌(2月15日)は、現在計画が残っているロンドンからバーミンガムまでの約230キロの区間が、「世界で最も高価な路線の一つ」になると指摘する。1キロあたりの建設に、3億ポンド(約600億円)という高額な出費を要する。路線の大半がトンネルや高架区間であることがコストの高騰を招いている。

◆過剰な高規格が災いか

 迷走の原因は何か。英シンクタンク「ポリシー・エクスチェンジ」の交通部門の責任者であり、元首相補佐官(交通担当)を務めたアンドリュー・ギリガン氏は、サンデー・タイムズ紙への寄稿の中で、「HS2は最初から失敗することが決まっていた」と厳しく批判している。ギリガン氏は4つの根本的欠陥を挙げる。ルート選定の失敗、過剰に高規格な設計、ほかの交通網との連携不足、建設主体の事業者の浪費と不誠実さだ。

 イギリスの土木学会(ICE)がHS2の失敗に関する報告書をまとめているが、その中で「過剰に高規格な設計」に関して、仕様が「世界最高水準の鉄道で、200年間使える設計」とされたため、過剰なものになってしまったと指摘している。HS2の設計時に「世界最高水準」を目指すよう政府から指示があり、時速400キロで運行可能な列車を1時間に36本も走らせる計画だった。(タイムズ紙

8月の英中部バーミンガムの建設現場|Clare Louise Jackson / Shutterstock.com

 そのためには99%の可用性が求められるほか、保守用のアクセス道路も含め、前例のないインフラが必要だという。だが、こうした過剰な仕様が要因となり、建設費が最初の見積もりを大きく上回ってしまった。さらに詳細設計が固まっていない段階から着工が進められたため、後から路線変更が必要になるなど想定外のコストが次々と発生し、最終的に計画が頓挫する結果となった。

◆内閣交代で迷走続く

 報告書はまた、HS2の根本的な問題の一つは、責任の所在が誰にあるのかが不明確であったことだとも指摘する。国会か運輸省の事務次官か、HS2の会長か最高経営責任者(CEO)かなど、長期にわたり主導権を持つ存在が定まらなかったという。さらに内閣が頻繁に代わり、首相、財務相、運輸相が入れ替わるたびに、HS2を必要とする根拠が変わってしまった。一貫した目標設定が困難になり、最終的に事業の見直しを余儀なくされたと記事は分析している。

スナク首相が23年10月に一部区間の中止を発表|ComposedPix / Shutterstock.com

 そもそもイギリスに高速鉄道は不要だったとの指摘も上がっている。元首相補佐官のギリガン氏はBBCの取材に対し、「スペインやフランス、ドイツとは異なり、イングランドの主要都市は、ニューキャッスルを除いて、すべて200マイル(約320キロ)以内の距離にあります」と述べている。この距離内の都市間移動に、本来は高速鉄道は不要だと氏は批判する。

◆高額すぎて引き返せない

 それでもHS2計画が撤回に至らなかったのは、すでに投じた巨費を惜しむ心理的要因が働いたためだ。ギリガン氏はサンデー・タイムズ紙への寄稿で、「HS2は、おそらく意図的に、高額すぎて中止できない規模になっていた」と主張する。

 HS2は2020年の時点で、設計や用地買収などの「準備作業」に、90億ポンド(約1.8兆円)もの巨費が投じられていた。仮にここで事業を中止しても、その費用はほとんど無駄になってしまう。このため政府は、すでに多額の費用をかけているため、完遂するのが賢明だとばかりに事業の継続を正当化した。この時点ですでに、事実上引き返すことが困難な状況に陥っていた。

HS2向け高速鉄道車両のイメージ|Hitachi Rail

 もっとも、暗い話題ばかりではない。ガーディアン紙が10月30日に報じたところによると、イギリスのレイチェル・リーブス財務相は、ロンドン中心部の北部に位置するユーストン駅までの延伸工事に係る資金を確保したと明らかにした。当初計画されていた中心部への乗り入れについて、一部区間の見通しが立った形だ。

 迷走が続く巨大プロジェクトのHS2計画は、数々の議論を巻き起こしながら、当初の見込みとは異なる形で実現に向かっている。