知り合いが誰もいない場所でと単身渡英、がむしゃらに働いて
ミチコさんが目指すのは、街中で“あの人、カッコいいな”と、通り過ぎた人が振り返るようなファッション。「身に着ける人の自信を一緒になって作りたいと思っています」
転機は1973年。「このままでは小間使いで一生終わる」と考えたミチコさんは、単身海外へ渡る決断をします。なぜロンドンだったのかと問うと、「姉たちの伝手がなかったから」とミチコさん。
「パリやイタリアには姉の友達がいて、私が貧しい格好で街を歩いていたらいろいろ言われるでしょう。日本を出て次の人生を見つけるには知り合いが誰もいない街がよかったんです」
渡英後の生活は苦しかったと振り返ります。
「お母ちゃんから100万円を持たされたけど、当時は1ポンド750円。あっという間になくなって、食いつなぐためにホテルの清掃係から何でもやりました。あるとき、お母ちゃんが米や野菜をしょってロンドンに来てくれて、“助かった”と喜んだけど、お金は置いていかなかった。自分の力で生きなさいと、あえて娘を突き放したんです」
以来、ミチコさんはがむしゃらにファッションの道を進むようになりました。
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習っていないから型にはまらず、とてつもない挑戦ができた
「最近は新しい生地がどんどん開発されているから、これまで絶対に作れなかったもの、まだ世の中にないものを、ここから生み出したい。“絶対に成功させるぞ”と挑戦しているときがすごく楽しいんです」
「ある日、デザイナーの募集があって面接に行くと、まわりは有名な美術学校を出て立派なファイルを持っている人ばかり。何も持っていない私は面接官に『もう一回来ていいですか』とお願いして、翌日ジュンコ姉ちゃんのビデオを持って行ったんです。『なかなかいいね、君の?』と聞くから、『ノー! 姉のだけど一緒に働いていたから、認めてくれ』と言い切ったの(笑)」
会社の工房を見学すると「お母ちゃんの仕事場と似ていて、仮縫いしている人たちの手つきを見たとき、私の方ができると思った」とミチコさん。余り布を持ち帰り、自ら染色、裁断して服を作ったところ、評判を呼んで展示会に出品することに。これがデザイナーとしての第一歩となりました。
「誰に習ったわけでもないけど、お母ちゃんや縫い子さんたちを見て暮らしていたから“服を作るのは普通やん”って感じでした。むしろ習っていないから型にはまらず、とてつもないことができたんだと思う」とミチコさん。
70年代に発表した軽くて暖かいコート、80年代に大ヒットした空気で膨らませる「インフレータブル」シリーズなど、ファッション性と実用性を併せ持つアイテムを次々と生み出していきました。
年季の入った足踏みミシンは今も活躍中