中古車業界に異業種から出張中古車買取り専門店として参入し、業界初の出張専門の中古車買取りフランチャイズを開始。わずか8年間で全国120店規模に展開、扱い台数5000台、売上40億円にまで成長させた「車買取りハッピーカーズ®︎」の新佛千治社長。
アフリカへの中古車輸出事業からの撤退など、波乱万丈の経験もした新佛社長がたどり着いた理念が、「車を通じて、関わる人すべてを、ハッピーにしていく」というもの。
そんな想いを社名に込めた株式会社ハッピーカーズは、今年で10周年を迎える。「まずは湘南で一番」を目指してたった一人で始めた車買取りビジネスが全国規模へ、そして出張中古車買取りではナンバーワンにまで成長した背景には、どんな思いがあったのか。
リニューアルされた著書『クルマ買取り ハッピーカーズ物語』で明かされた、中古車業界の常識や慣例にとらわれない独創的な新佛社長の経営理論に迫る。
◆◆「日々の生活費を稼ぐだけ」の人生に悩む会社員時代
新佛社長は最初、住宅向けの内装建材メーカーに就職したという。
「現場で階段の採寸をしたり仕事は楽しかったのですが、月末はノルマの数字に追われる日々でした。朝7時に家を出て、帰宅は連日連夜。この仕事を続けても、単なる日々の生活のためのサラリーを獲得していくだけの人生になってしまうんじゃないか?
次のキャリアにジャンプアップができるような経験や実績、人脈が手に入らないのなら、ここでの営業の仕事は貴重な人生の時間を浪費しているだけではないか?
会社にこき使われるだけじゃ、僕はいつまでもこの決して幸せとはいえないサイクルから抜け出せない、と危機感を抱いたのです。そして、『だったら自分で商売を始めよう』と、ノウハウも知識も経験も何もないただの20代でしたが、漠然とそんなことを思い始めていました」
そのとき、ずっと心に引っかかっていたことがあったという。
「ウィンドサーフィンです。社会人になっても趣味で続けていたのですが、休みになるたび海に繰り出すほど、ウィンドサーフィンは僕の生活に深く根づいた存在でした。
そうはいっても、生活するためには働かなければならない。でも、ウィンドサーフィンも極めたい。たぶん、このように思った背景には、職場環境が今ひとつ納得いくものでなく、働いている実感も頑張ったという手応えもまったくなかったということがあったのかもしれません」
◆◆日本車需要が高いアフリカに中古車を輸出
その後の新佛社長の人生は波乱万丈そのもの。紆余曲折をへて、新佛社長が目をつけた新しいビジネスが「中古車輸出業」だった。
「ネットで見つけた『中古車輸出業なら、低リスク、小資本で、伸びている海外マーケットにチャレンジできる』という一文を見て、『これだ!』と成功の確信を得ました。
いえ、その自信に根拠は当然ながらありませんでしたが(笑)。でも、それまでドメスティックな仕事をしていたので、『世界を相手にするグローバルな仕事がしたい』という思いが強く芽生えていて、その点においても中古車輸出業はピッタリでした」
新佛社長が手掛けたのは、海外への販売ルートの開拓だった。
「主な輸出先はアフリカの東海岸。今でもそうですが、アフリカはかねてより、日本の中古車の主な輸出先として知られています。ケニアをはじめ、ウガンダ、タンザニア、モザンビーク、ザンビアといった東海岸の国々は日本と同じ左側通行(右ハンドル車利用)なので、日本車の需要が非常に高いのです。
ちょうどその頃、中古車の輸出先としてモザンビークからの取引が増えていて、モザンビークのセルジオというバイヤーと直接連絡を取り合うようになっていました。
何度かやり取りをした後、彼が自家用車として購入したフォードの輸出をきっかけに、モザンビークまでセルジオに会いに行ったんです。マプートという港町にほど近いところに住む彼は、今後、日本から中古車を輸入してモザンビークで販売していくビジネスを手広くやっていきたいという夢を真剣に語ってくれました。
帰国後、彼が在庫にしたいという車をリクエストしてもらい、オークションで買いつけ、ランドクルーザープラド、RAV4といった人気車を次々と船積みして送りました。
ところがセルジオから『計画がとん挫して、今は払えない』との連絡がきて……。その連絡は僕にとって死刑宣告にも等しくて、致命的な状況に陥りました」
「その後、巻き返しを狙い、「『中古車輸出事業を手掛ける知り合い数名で現地法人を立ち上げて、一緒にビジネスを始めよう』という話になりました。
手を上げた10人くらいの人たちとは何度か打ち合わせを重ねていきましたが、いざ資金を出す段になると、ひとり、ふたりと静かに去っていき、最終的に残った僕とパートナーでタンザニアのかつての首都、ダルエスサラームに現地法人を立ち上げて、ビジネスを始めることにしたのです」
タンザニアに拠点を移してすぐ、地元の人たちに事業を知ってもらうため、さまざまな取り組みを行ったという。
「まずは大々的に、新聞広告を打つことから始めました。現地のトレードショーに日本からラッピングして船積みした車を出展したり、一流ホテルを貸し切って駐タンザニア大使やタンザニア銀行の重役といった要人からマスコミまでも招いてパーティを開いたり、売り込むためなら片っ端から何でもやりましたね。
現地の電話帳を引っ張り出して、スタッフと一緒にスワヒリ語でアフリカ人の社長に電話をかけてアポをとり、バスで道なき道を進みながら、文字通り命がけでクライアントを訪問し、中古車の売り込みを行う日々。
しかしながら、生半可なパーティーも、にわか仕込みの訪問営業も、簡単にうまくいくほど世の中は甘くありません。たちまち僕は、にっちもさっちもいかなくなってしまい、その年の暮れにやむなくアフリカからの撤退。そして同時に、中古車輸出ビジネスからの撤退を決意したのです」
◆◆「まずは湘南から中古車ビジネスで一番になろう」
ゼロからのスタートを切るために日本に帰ってきた新佛社長。なぜアフリカでの中古車輸出業は失敗したのか?
「アフリカでのビジネスが失敗した原因はたくさんありますが、中でも特にネックになったのは、英語ができなかったことです。日本語でも商売を進めていくにはコミュニケーションが大事なのに、最低限の意思疎通もできなかった僕が海外で、しかも現地の人を相手に商売するのに、英語ができなければ話になりません。
『グローバル』という甘美な響きに目がくらんでいたのかもしれません。だから、いったんゼロに戻ってアフリカから日本へ帰り、これから一体、何をやって稼いでいこうと考えたとき、まず頭に浮かんだのは『身のほどを知る』ということでした」
もっと勝算が見込めるところはどこか? そう自問するうちに、自ずと答えが決まった。
「当然、日本です。 かつ家の近所。ここならナンバーワンになれる。大好きな湘南という街をベースに勝負すれば、きっと誰にも負けない。湘南で一番になろう。『湘南で中古車ビジネスといえば、新佛くんのところが一番だね」と言われるようになってやろう。こうしてビジネスのテリトリーを決めました」
◆◆中古車オークションは「高く仕入れる場」だと気づいた
中古車輸出業とは「オークションで中古車を仕入れ、海外に販売する」ということだが、うまくいかなかった決定的な理由を次のように分析した。
「『安く仕入れられないから、利益を出すことができなかった』ことに尽きます。オークション会場で買うということは、どの業者よりも一番高く仕入れることにほかなりません。
それなら、オークションを仕入れの場ではなく、売り場と考えてみてはどうだろうと逆転の発想をしたんです。
それからというもの、とにかく『車を買います』と家族をはじめ、知人、友人、近所の人などに声をかけまくりました。最初は相手にされませんでしたが、割とバカになって同じことを言い続けていると、不思議なもので『じゃあちょっとうちの車見てよ』と自然と声がかかるようになりました」
せっかく声をかけてもらったのだから、がっかりさせるわけにはいかないと、とにかく他社の買取り額や下取り額より徹底的に高い価格を提示していったという新佛社長。
「僕は自分にとってなじみ深い湘南という街で、この仕事を始めようとしている。つまり、自分が儲かれば、地域も儲かる。このことをベースに考え続けるうち、『車を通じて、関わる人すべてを、ハッピーにしていく』という自分のやるべきことや、事業の柱としての理念が見えてきたのです。
このときはまだ『ハッピーカーズ』という名称は決まっていませんでしたが、自然と『ハッピー』という言葉が頭に浮かんできました。この理念から『クルマ買取りハッピーカーズ』という会社名が生まれたのです」
◆◆振り返ると「好き勝手に生きる」ことに一生懸命だった
「これまでやるべきことを優先順位にしたがって一つずつこなしてきて、今振り返ってみて、はっきりしたことがあります。それは、僕は『好き勝手に生きる』ことに意外と一生懸命だったということです。
人生の中で、仕事が占める割合は相当なものです。一般的な会社員の場合、人生の総時間のうち約3割を仕事に充てているといわれています。残り7割で家族と過ごしたり、プライベートを楽しんだり、食事したり、眠ったり、休んだりしているわけです。そう考えると、仕事がどれだけ楽しく、満足できているかによって、人生の充実度が決まるといっても過言ではありません。
それまで大病をしたことはありませんでしたが、いきなり脳梗塞になって、生死の境目を彷徨ってから、僕は健康に気を遣い、仕事の仕方も見直すようになりました。朝食を食べたら、愛犬をつれて海まで散歩。波の状態を確認して、『これはサーフィンができそうだな』と思ったら、すぐにボードをとってきて海に入ります。
海に行けば誰かしらサーフィン仲間がいるので、『今日の波はなかなかだね』など会話したり、情報交換をしたりします。サーフィンをするときは、だいたい朝9時までには自宅へ戻り、シャワーを浴びてから仕事です。こんなふうに朝9時くらいまでにその日やるべきことは終えています。
日常も、仕事も、サーフィンも、みんな連続した時間の中でシームレスにつながっていく感覚。案外、仕事とプライベートの境目をなくしてみて、どちらも同じ自分の人生の切り離せない一部として考えると、よりストレスを感じずに人生を楽しめるような気がします」
【プロフィール】新佛千治社長
株式会社ハッピーカーズ代表取締役。メーカーに入社し、全国トップクラスの営業マンになるも、「自分の可能性をもっと広げてみたい」と退社。サーフィンで大波に乗ることを目指しハワイへ。
帰国後は、新たにデザインの勉強をはじめ、未経験から広告業界に飛び込む。
出版社にデザイナーとして入社し、のちに大手情報サービス会社で広告制作ディレクター、コピーライターとして実績を積み、2005年にはクリエイティブディレクターとして広告制作会社を立ち上げる。
その後、リーマンショック、東日本大震災などの世の中の環境変化に伴い、フランチャイジーとしてまったくの異業種である中古車輸出業へ。海外への販売ルートの開拓を視野に、中古車の輸出先となるアフリカのタンザニアに現地法人を立ち上げるも、治安の悪さから短期間で撤退。
再びゼロから一人で中古車買取り事業をマンションの一室で創業。その翌年2015年には株式会社ハッピーカーズを設立しフランチャイズ展開。2024年現在、売り上げ40億円、扱い台数5000台、全国に120店規模の加盟店を展開する企業へと成長する。
著書に『クルマ買取り ハッピーカーズ物語』(扶桑社)、『人生が劇的に豊かになる! 40代からの「中古車投資」』(講談社)、『DONʼT BE GREEDY 欲張らない経営 レッドオーシャンの車買取り業で成長し続ける一人社長の経営論』(幻冬舎)がある。
<文・構成/日刊SPA!編集部 プロデュース/水野俊哉>
【水野俊哉】
1973年生まれ。作家。実業家。投資家。サンライズパブリッシング株式会社プロデューサー。経営者を成功に導く「成功請負人」。富裕層のコンサルタントも行う。著書も多数。『幸福の商社、不幸のデパート』『「成功」のトリセツ』『富豪作家 貧乏作家 ビジネス書作家にお金が集まる仕組み』などがある。