年を取れば自動的に大人になれる──わけではなかった

思うに、かれら就職氷河期世代には、これまでの世代のように「大人」になるための〝通過点〟を、社会が十分に用意してくれなかったのだろう。

たとえば働き口だ。1990年代に突如として就職氷河期がやってくるその直前まで、だれもが正社員で働き口を見つけられると素朴に信じられるくらいの社会的状況が整っていた。だがご存じのとおり、かれらは社会人として世に出る目前にしてその梯子を外された。幸運にも正社員の働き口にありつけた者もいたが、しかしそうした雇用のイスが用意されず、非正規やフリーターで食いつなぐことを余儀なくされた人も少なくはなかった。

日本の企業社会における「会社組織のメンバーとして年功序列的にステップアップし、30代や40代でそれなりに責任のあるリーダー的な立場を任される」──というロールモデルを得るには、やはり正社員であることが前提となっている。そしてこの「責任ある立場」というロールモデルこそが、ある人を世間でいうところの「大人」として成長させていた。逆にいえば、正社員としてキャリアを積み上げて「責任ある立場」を得るチャンスが十分に提供されなかったことで、かれら就職氷河期世代は「大人」になる機会を逃してしまった。

さらにいえば、その後も数十年間にわたって景気は回復することがなかったせいで氷河期以前の水準まで採用枠が持ち直すこともなかったばかりか、かれらの後進世代からは急速に少子化が始まっていた。その結果として、苛烈な就職難をなんとかかいくぐって企業に正社員として雇われた人でさえも、なかなか「自分を慕う後輩」がやってこなかったのだ。何年働いても、自分がいつまでも「フレッシュな若手」として扱われる日々が、それこそ30代半ば、場合によっては40代に入っても続いていた。

つまりかれらは、そもそも正社員の雇用のパイが絶対的に乏しくなったせいで「責任ある立場」に進める門戸が狭かったばかりか、運よく正社員になったとしても「頼りにされる先輩」というポジションや自認も得られないという二重苦に陥っていた。そのような情況では、ひと昔前(高度成長期やバブル期)に30代半ばになっていた人びとが醸し出していたようなある種の「貫禄」をかれらが同じように持つのは土台無理な話だ。

人間はだれもが年を重ねれば自動的に大人になれるわけではない。この身も蓋もない事実を、しかし日本社会は長年において認識できなかった。かつての時代には「大人になるイベントがだれに対しても適切適時に用意されていた」からだ。あたかも年を取った人がみな自動的に大人になっていたように見えてしまっていた。そのような「大人になるイベント」が根こそぎ失われてしまえば、年齢的には大人なのに、内面的には幼いままの人が増えるのは必至だった。

逆に近頃の若者たちが妙に老成しているのは、かれらが「企業社会に入り、そこでコツコツと上を目指す」ではなく「自分たちの小さなグループをやりくりしていく」という小さな共同体主義的なライフスタイルに傾いているからだ。そこでなら自分たちが「コミュニティを切り盛りする」という立場で責任を負うし、後輩の世話をする役割も生じていく。かれらはかれらで、若い時間をエンジョイできず、強制的に大人になることを強いられているようにも見える。

就職氷河期世代は、いまの若年世代と比べて、そうしたコミュニティ的な「横のつながり」も希薄だ。なぜなら「正社員の座をつかみ取った勝ち組/ずっと非正規を渡り歩いた負け組」では、所得面はもちろん、社会観や政治観にも大きな分断構造があるからだ。世代内における「勝ち組」側は、対岸にいる「負け組」に対しては必ずしも同情的ではなく、かといって「負け組」も同じ境遇の者同士で連帯して共同体をつくることもなかった。

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サブカルチャーが、かれらを「永遠の若者」にする

また、かれら就職氷河期世代について特筆すべきもうひとつの重要な点は、かれらがいまもなおサブカルチャー・コンテンツ産業にとっては「上客」であり続けていることだ。

マンガにせよアニメにせよゲームにせよ、ここ最近の日本のサブカルチャー・コンテンツ業界は就職氷河期世代が多感な青春時代に熱中したであろう往年の名作の「復刻(リメイク)」を連発している(*1)。

それはかれらが、この国で急激な少子化が起こる前夜に生まれた「最後のまとまった人口ボリュームのある世代」だからでもある。コンテンツ産業にとっては、かれらの就職氷河期世代のノスタルジーを刺激する作品を現代に復刻することは、潜在的な顧客の規模が大きくコマーシャル的な期待値が高いことから、まったくの新規タイトルをゼロから開発するよりも商業的に優先されやすい。

しかしこのような「ノスタルジックなコンテンツのリバイバル」を提供する側の大人の事情が、コンテンツを消費する側の就職氷河期世代にとって「いつまでも自分が先端カルチャーの主役だ」という自意識の醸成に意図せず寄与してしまった。

マンガやアニメやゲームのトレンドが(年を重ねるごとに)自分の好みとはズレていき──ようするに、ついていけなくなって──人はそうしたコンテンツから「卒業」していくのが世の一般的な流れだ。しかし就職氷河期世代はつねに「リメイク」や「リバイバル」と称して自分たち好みの作品を一定量供給されていた。業界からはずっと自分たち向けのコンテンツが提供され続けているからこそ、かれらはマンガやアニメやゲームを「子どもが楽しむものにすぎない」と距離をとって卒業する機会がなかったのだ。

もちろん就職氷河期世代内(主として勝ち組側の人びと)では、年相応に結婚や子育ての話題に主たる関心がうつっている人もいる。しかしそうした「家庭人」としてのロールモデルを得られなかった人は、コンテンツ産業によって「終わらない青春時代」を擬似的に体感させられ、今日も「コンテンツ・カルチャーを全力で楽しむ人」のようなフレッシュで若々しい雰囲気を醸し出している。つまりライフステージの二極化が著しくなっているのだ。