格差拡大装置としての「体験」
経済的に余裕のある層が自分の子どもに毎日習い事や文化活動をさせる一方、貧困層は学校に行かせることで精いっぱいであるという体験の格差はおそらく昔からそれなりにあったのだろう。
貧乏な家の子が家でゴロゴロしているときに、富裕層の子は美術館に行ったり海外旅行に行ったりする──そうしたライフスタイルの違いはずっと昔から歴然と存在していた。しかしながら、もちろん優雅な暮らしをやっかむ気持ちが多少はあっただろうが、「そういうものだ」としてそこまで深刻な問題意識は持たれていなかっただろう。
……だが、これからは違う。
そうした豊かな体験の有無こそが人間の「価値」の多寡を決する重大な構成要素になっていく時代においては、それは単なる体験の格差ではなく「体験格差」という名前をつけられ、深刻な格差問題・社会的分断として可視化されていくことになる。
急激なAI技術の進歩が人間の純粋な「学力」の価値を急速に陳腐化させている。これまでの時代は、貧しい家の子でも頑張って「学力」を高めさえすれば一流の大学に入れて「人生一発逆転」が狙えた。どれだけ文化的・教養的・人間関係的に乏しい環境に置かれていても、受験料4万円ほどを支払い、目の前に用意されたペーパーテストの一発勝負でいい点数さえ取れれば、社会経済階層をジャンプアップできるチャンスが与えられていたのだ。だがペーパーテスト一発勝負で好成績を収められるようなタイプの知的能力はAIが急速に代替しつつあり、その価値は小さくなっている。事実、AIはいまの水準でも大半の子どもたちよりテストの点数で優秀だし、議事録作成やグラフ作成といった知的処理能力ではもはや人間は太刀打ちできなくなってきている。
逆に貧しい家の子どもではどうしたってカバーしようがない「豊かな経験」は、AIにとってもそうだ。実物的な身体を持たず感受性のないAIにとっては代替しようがないある種の聖域として残り続ける。これまでの社会的・文化的・人間関係的な豊かさを裏づけるエピソードを問う面接やエッセイを課せられてしまえば、貧困層にとっては一巻の終わりだ。
どうあがいても、AIによる人間の知的能力の陳腐化の流れはますます加速していくことは避けられない。中流以上の家庭はいままさに時代が大きく変化しようとしている空気感をさすがによく気づいていて、総合的な「人間力」こそがこれからの子どもたちが大人になった時代の人材価値の中心になることを理解している。だからこそ、タクシーに乗せてでもとにかく体験投資を惜しまない。
いま世の中で盛り上がっている体験投資とはつまり「AI時代に取り残されない人間になるための投資」なのである。
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「体験投資レース」が少子化を加速させる
おそらく今後ますます苛烈化する体験投資のブームは、若い世代にとってさらなる少子化圧にもなってしまう。子どもを持つことの経済的・心理的ハードルを爆発的に高めてしまうからだ。
それこそ週5~7日の習い事をぎっしりと詰め込み、体験投資を充実させるには、低く見積もっても月に10万円近い追加費用が発生することになる。これに耐えられる家庭というのはさすがに限られてくる。しかもそれはこれからの時代には「十分条件」ではなく「必要条件」になる。子どもがフィルタリングされる要件がまさにそのような体験投資の多寡になるからだ。
社会がAI時代に設定するフィルタを突破できそうもない経済状況の人びとは子どもを持つことをためらい、諦めるようになる。あるいは、体験投資を子どもに施してやれるくらいの余力を持っているような層の人びとでも、だからといって「体験を十分にさせてあげられるような人間でなければ子どもを持つ資格などない」という世の中の倫理的ハードルの青天井の高まりに自分たちが十分に応えられる自信がなく、子どもを持つことに強いリスクを感じるようにもなる。
私たちが善かれと思いながらやっている教育投資チキンレースは、もはや「教育」の枠を超えて、全人格的な投資へとその戦線を拡大している。広がりすぎた戦線を支えるような経済的余力と精神的余力を持つ人は限られてくる。ごく一部の富裕層だけが子どもを積極的につくり、それ以下の層はじわじわと子どもをつくらなくなっていく、そういう社会構造に変化していく。というかもうすでにそのような兆しは見えている。
貧困層にとってはいうまでもなく、いまは嬉々として体験投資にリソースをつぎ込む中流以上の層にとっても、終わりのない競争にいつか疲れ果て、「これならただペーパーテスト一発勝負で好成績を収める能力が基準だったころのほうがマシだった」と懐かしく振り返る日がそう遠からずやってくるだろう。
御田寺 圭
文筆家