間質性肺炎を患った料理家・枝元なほみさん…病気を受け入れて見つけた新たな使命は

思うように料理ができない…酸素チューブをつけたままテレビに出演


入院中はよく絵を描いていたという枝元さん。体調が思わしくない中で、手を動かして無心になることで救われていたと振り返ります。

枝元さんはこう振り返ります。

「最初は病気の症状に振り回され、病気であることも受け入れられませんでした」。特に気がかりだったのが酸素チューブです。外見が変わるだけでなく、酸素を注入するために愛用していたガスコンロでの料理ができなくなり、IHを導入せざるを得ませんでした。

しかし、枝元さんはやがて病気を受け入れ始めます。

「酸素チューブをつけたままテレビに出たら、同じようにチューブをつけている視聴者の人たちから『励まされました』という感想が届いたんです。自分が誰かを助けることができる、と新しい“使命”をもらえたような気分でした」


キッチンには各地の農家さんから送られてきた食材がたくさん。「おいしい料理はおいしい食材なしにできないですよね」

料理への考えも変わりました。

「体調が悪いときは料理を作ることもしんどい。そこで具合が悪くても作れる料理を紹介したんです。例えば===ここから?===それまでモロヘイヤは刻んでからスープや汁に加えていましたが、実は葉を摘んで冷凍し、それをつぶすと粉々になって刻まなくていい。そういうアイデアを紹介したら、喜んでくれる人がいました。

これからも調子が悪いこともあるでしょうが、流されては受け入れ、乗り越える。それを繰り返し、そのときできることをすればいい。自分のごはんを自分で作る。それが今の私にとってのリハビリです」


現在も料理を作る元気がないときはしおりを作っているそう。「フードロスの問題を知ったら紙も捨てられなくなり、再利用しています」

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料理学校に通わないまま料理研究家になってよかったと思う理由


日当たりのよいリビング。「以前だったら床が汚れているとすぐに掃除していましたが、今は病気でできない。あまり気にしないようにしています」

そのときできることを見つける姿勢は料理研究家のキャリアにも通じています。実は枝元さんは料理研究家になるつもりはなかったそう。

「大学で演劇を始め、卒業後も続けていたのですが、30代前半で劇団が解散してしまったんです。困っていたら、ちょうど無国籍料理のレストランでアルバイトをしていた縁で、ライターをしていた友達が料理の仕事を紹介してくれたんです」

料理学校に通わないまま料理研究家になりましたが、枝元さんは「それがよかった」と話します。

「きっと学校に行っていたら、習ったことからはみ出して失敗するのが怖くなるでしょう? 

けれど私は習ったことがないから失敗する。失敗したら理由を考えて対策を練る。そのときどきで向かい合うんです。

私の座右の銘は“鍋の中を見よ”。例えば『3分炒める』といっても必要な加熱時間は食材の状態や鍋の厚さ、気温によって変わりますよね。鍋の中を見て考えるんです」


愛猫のくぅちゃん。「もう一匹の猫は『きぃちゃん』。私は2匹の『かぁちゃん』です」と笑います。