2024年12月19日に訃報が伝えられた、プロ野球の読売ジャイアンツの元オーナーとして知られる渡邉恒雄氏は、2001年から2年間、日本相撲協会理事長の諮問機関である横綱審議委員会の委員長を務めた。当時、スポーツ紙で大相撲を担当していた記者は、何度か渡邉氏を取材する機会があった。
大相撲では年3度(1月、5月、9月)、東京・両国国技館で場所が開催される。当時、東京場所が行われる前に、両国国技館内に併設している相撲教習所で横綱審議委員による稽古総見が恒例行事となっていた。
「横綱だからといって一年以上も休むことなど許されない」
稽古総見とは、横綱審議委員が稽古を通じて横綱をはじめとする番付上位陣の体調をチェックすることを目的として行われるもので、横綱審議委員、日本相撲協会の理事長ら親方衆らが一同に顔をそろえる。
巨人軍のオーナーを務めていた渡邉氏は、相撲場でもスポーツ紙の巨人担当に追いかけられていた。相撲担当記者との質疑応答が終わると、次は巨人担当記者に応じる。大相撲、プロ野球の両担当において、渡邉氏の発言は非常に大きなものだった。
渡邉氏は良い意味でも悪い意味でも物事をはっきりと言う人物だった。
横綱審議委員長時代の2002年7月、名古屋場所後の横綱審議委員会でのことだった。当時、7場所連続で休場していた横綱貴乃花に対して渡邉氏は「横綱だからといって一年以上も休むことなど許されない」と翌秋場所の出場を厳命した。
そして出場する際の条件として12勝以上を課し、「責任をまっとうする自信がなければ自ら決してくれということ」と、横綱としての結果を残せなかった場合、自主的に引退することを求めた。
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2002年秋場所は「奇跡の復活場所」
5日目までの貴乃花は、2勝3敗と相撲人生の土俵際に追いやられていた。だがここからが貴乃花の真骨頂だった。6日目から9連勝を飾り、12勝2敗で迎えた千秋楽。相手は12勝2敗で並ぶ横綱武蔵丸だった。
優勝賜杯がかかった結びの一番。立ち合いから貴乃花はおっつけで武蔵丸の差し手を封じようとしたが、武蔵丸の圧力に屈し、最後は右差しを許して左かいなを返され、寄り切られた。
渡邉氏が課したノルマを果たし、最後まで優勝争いをした貴乃花。この場所で全てを出し切ったかのように、貴乃花は翌九州場所を全休し、翌年の初場所で引退した。2002年秋場所が貴乃花にとって最後の晴れ舞台だった。
読売グループの総裁、渡邉氏と平成の大横綱貴乃花の2人の役者によって演出された2002年の秋場所は、のちに「奇跡の復活場所」として角界で語り続けている。
貴乃花に対して一貫して非情な言動を取っていた渡邉氏だったが、秋場所後の横綱審議委員会では貴乃花のことを「カリスマ的な存在」と称賛した。結果を出した者には正当な評価を与える。これもまた渡邉氏が見せた人間味だった。
(J-CASTニュ-ス編集部 木村直樹)