俳優・神野三鈴さんが綴る、日々のこと。
今回は美味しいものや芸術を楽しむためにも、なくてはならない「嗅覚」のお話です。
最近、慢性副鼻腔炎の悪化から鼻ポリープの手術をしまして、嗅覚が健康、感性、性欲、情緒、記憶、寿命まで、どれだけ大きな影響があるのか、この術後の痛みの激しさを紛らわせる、いえ、生かし、俄にわかではありますが経験ホヤホヤのお話をお届けします。
10年以上前から鼻の具合が悪く、騙し騙し暮らしていた。最近はちょっとハードワークが続くと歯痛や微熱に悩まされ、起き上がれないほどに。
踏ん張りが利かない自分が情けなく、これが歳を取るということかと気持ちまで落ち込んだ。
何度か受けた病院の診断は毎回、副鼻腔炎。
大量の抗生物質を処方された。しかし、頑張りが利くサイクルは短くなり、痛みと熱と鼻詰まりでボーっとする。嗅覚は徐々に失われてきて、何を食べても美味しくない。
触れ合う家族の匂いも自分の匂いもわからない。汗臭くないかと不安になる。
匂いがしないと、映画とか画面を見ているように世界と自分に膜のような壁を感じる。気分転換に海に出ても潮の香りがしない。視覚と聴覚だけが世界を認知するのに重要ではないと思い知った。
散歩中に金木犀が咲いていると、その姿を見つける前にあの甘い香りに気づくこともないのだ。情緒というか感情というか、何かが失われていく。
匂いは明らかに心の状態にも変化を起こす。
アロマテラピーの効能然り、懐かしい、その人だけの思い出の香りは鮮やかに記憶の時間すら巻き戻す。
嗅覚が失われてからは無感動になっていくようだった。
普段、騒がしいのでこれもいいかとも思おうとしたが、きっと食べ物が傷んでいても気づかない。
ガス漏れしていてもわからないだろう。命に関わることも出てくる。
記憶力にも思い出すためのきっかけが見つからないという、やはり靄の中にいるような状況だ。鼻が利かないということは動物にとって生命力に関わることなのだ。
しかし、またもや救世主が現れ(脳動脈瘤の手術のときもそうだった)、品川にある鼻の名医、松脇クリニック 品川の松脇由典医師の元へご縁を頂いた。
丁寧で細かな幾つもの検査や嗅覚のテストを受け、松脇先生のクリアな診断の結果は、頰の裏に大きく広がる副鼻腔の中の奥歯の上辺りから、ひらひらと大きな白木耳のような鼻ポリープができているとのことだった。
腫れているときはこの白木耳?がシャインマスカットの房のような形になるらしい。これが刺激をして腫れた鼻筋周りの副鼻腔だけが炎症をしていると診断されていたのか。
先生は、すぐ手術が必要。身体の状態もだが嗅覚がダメになっている期間を一日でも短くすることがとても重要で放っておくと嗅覚が戻らないばかりか、脳の海馬にも深い影響があるため、認知などの症状や鬱病を招く確率が高い、とおっしゃる。
ぼんやり感じていた症状に名前がついていくことにショックを受けながらも納得。
病気をきっかけに元々アロマなど香りが好きだったこともあり、私は嗅覚に関する本や研究書に興味を持つようになった。
シェフになることが夢だった女性が交通事故で脳に障害を受け、嗅覚を失い、また嗅覚を取り戻すまでを書いた『アノスミア』(勁草書房)などで今まで知らなかった世界を知った。
一般的に女性は嗅覚が優れているらしいが特に月経期にはさらに鋭くなり、自分と違う分子を持つ匂いを好むらしい(近親者を遠ざけるためか)。閉経後のホルモン降下と嗅覚の衰えは関連するから、嗅覚を鍛えるトレーニングをすることで更年期の不調にも効果があるそうだ。
また人生の宝物が過ごしてきた思い出にあるとしたら、そこで嗅いでいた匂いの全てが記憶と繫がっていて蘇る。もちろん辛い思い出が呼び戻されることもあるだろう。
しかし、それもトラウマのリハビリになるらしい。懐かしい匂いを思い出し、探してみるのも記憶の旅行のようで楽しそうだ。
私達世代から衰え始めるといわれる嗅覚を鍛えて大事にしたい。この世界には失いたくない愛しい匂いが多すぎるから。
まずは術後の詰め物が取れたら、思い切り深呼吸するぞ!
街ですれ違った人から父が生前吸っていた煙草の香りがした。
その瞬間、父が私の頭を撫でた日の情景が。父の表情と幼子の私。父の指からした煙草の香り。
夕暮れの柔らかで少し寂しげな光まで蘇った。
レモンやミントなど好きなアロマオイルを用意して、その香りの実物の写真をじっくり見る。シダーウッドなら鉛筆の写真でも大丈夫。
そして10秒以上瓶に鼻を近づけて、香りを嗅ぐ。視覚、嗅覚、認知の線を繫げて電気のスイッチを入れてあげるイメージ。
1日、最低2回を毎日繰り返すそう。筋トレならぬ、嗅トレです。
MISUZU KANNO
神奈川県鎌倉市出身。第47回紀伊國屋演劇賞 個人賞、第27回読売演劇大賞最優秀女優賞を受賞。代表作は舞台『メアリー・ステュアート』『組曲虐殺』、映画『37セカンズ』『大いなる不在』、ドラマ『アンチヒーロー』『ブラックペアン2』など。映画『アングリースクワッド』が11月22日公開予定。
文/神野三鈴 撮影/枦木功[nomadica] スタイリング/平井律子 ヘアメイク/奈良井由美
大人のおしゃれ手帖2024年12月号より抜粋
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