◆前回までのあらすじ
ベンチャー企業を経営する明里は、30歳を目前にして、2歳年下の彼氏・亮太郎と同棲を始める。
引っ越し当日のクリスマス。なんのデートプランも練っていなかった亮太郎に、明里は小さな違和感を抱き…。
▶前回:彼と初めて過ごすクリスマス。期待していた29歳女ががっかりしたワケ
Vol.2 クリスマス<亮太郎>
― ちゃんと、話すんだ。
ダイニングテーブルに座った明里が、俺の顔をまっすぐに見つめている。
明治通りに面した広い窓から、差し込む陽の光。その光を浴びて穏やかな表情を浮かべる明里のことを俺は、ハッとするほど綺麗だと思った。
だけど、なぜだろう。こうも思わずにはいられない。
― 明里が、遠い。
無言の空気に促されるままに、俺もダイニングテーブルの明里の向かいに腰掛ける。
去年のクリスマスに、すこし遅れた明里へのプレゼントとして購入したこのダイニングテーブルは、たかだか幅80cmといったところだ。繋ごうと思えば、明里の手をとって握り締めることだってできる。
だけど…なぜだかわからないけれど、テーブルの向こうの明里は、はるか彼方にいるように感じる。
近くにいるのに、遠い。
同棲を始める前よりも彼女を遠く感じるのが、不思議だった。一緒に暮らし始めた頃は、こんなふうに感じる時がくるなんて思いもしなかった。
― 話さなきゃ。
ついにその時が来たんだ。そう考えると俺は、緊張のあまり椅子の上で何度も身じろぎせずにはいられない。
C.P. Companyのパンツのポケットのなかで、ティファニーブルーの小さな箱がゴロゴロとその存在を主張していた。
このタイミングだとは思わなかった。だけど、ふたりの思い出が詰まったこの1LDKこそが、“その場”に相応しいのだとも思う。
だから、今日こそは──。
この1年ちょっとの同棲でつのった明里への想いを、余すところなく全力伝えようと決めた。
◆
明里がこの部屋に来たのは、クリスマスの日のことだ。
東京には珍しくチラチラと粉雪が降っていて、明里が引っ越してくる日だというのに不謹慎にも俺は、「積もらないかな」なんてワクワクしていたことを覚えている。
結局積もるような雪ではなく、明里も引っ越しのトラックも時間通りに到着した。
殺風景な俺の部屋にどんどんと運び込まれてくる大量の洋服や靴を見て、ついに本当に明里と一緒の生活が始まることを実感したっけ。
明里の荷物のなかで一番大きかったのは、シングルベッドくらいのものだった。
このベッドがあったからどうしても引っ越し業者を利用しなくてはいけなくて、秋には提案していた同棲だったのに、引っ越しの日がクリスマスにまで延びてしまったのだ。
「身ひとつで来ても良かったのに」
そう明里の前で拗ねてしまったのは、引っ越しが意外と遅くなったことへの抗議でもある。
けど、とくに不満だったのは…ベッドがあんまり広くなったら明里とくっついて寝られないんじゃないかって、少し心配になったからだ。
これまでもどちらかの家に泊まることは度々あったけど、狭いシングルベッドで明里とギュウギュウになって寝るのが、俺はすごく好きだったから。
結局、引っ越しが済むなりくっつけたベッドですぐに明里を抱きしめて、そんな心配は杞憂に終わったわけだけど。
明里と何度もキスをしながら俺は、ガラにもなく感動的な気持ちになって、これまでの明里との時間と、これから始まるふたりの生活とに想いを馳せた。
出会いは、なんてことはない食事会だ。
会社の同期で営業を務める瑛介が、俺の“とある過去”を心配してくれて女の子を集めてくれた会。
そこで明里を一目見た瞬間、「もう恋愛はしない」と心に固く決めていた俺の決意が、一瞬で吹っ飛んだのだ。
「私なんて、亮太郎君よりも2歳も年上だし…」
そう遠慮する明里を、とにかくかわいい、かわいい、と押しまくって、ようやく付き合ってもらってから11ヶ月。
今はその明里が、俺の部屋のなかで、俺の腕のなかで、はにかむように微笑んでいる。
この奇跡みたいな幸せが、気を抜いたら逃げてしまうんじゃないかと怖くなって、俺は一層強く明里をぎゅっと抱きしめた。
この頃の俺は、27歳。
新卒で営業として入社した大手広告代理店で、4年の大阪勤務を経て、本社のクリエイティブ部門に配属になった。
一人暮らしの部屋にこの渋谷と恵比寿の間の1LDKを選んだのは、43平米と広めだったことと、大学時代にバイトしていた大好きなライブハウスLIQUIDROOMに近かったから…という単純な理由だ。
念願のクリエイティブ職に転向できたばっかりということもあり、仕事はとにかく楽しく、そして多忙を極めた。
友達と立ち上げたベンチャーで在宅も多い明里には、ずいぶん寂しい想いをさせてしまっていたと思う。
デートの約束の時間に仕事が終わらず、レストランで待たせてしまったことは数知れず。CMの撮影時期には、タレントさんの都合で予定が振り回されることも多い。深夜のロケや急な出張も多くて、ドタキャンだってザラだ。
待ちぼうけを食らわせてしまったり、楽しみにしていたレストランを泣く泣くキャンセルしなきゃいけないときには、明里に申し訳なくて、情けなくて仕方なかった。
もちろん、日頃迷惑をかけてしまう分、温泉やらディズニーやらリッツやら色んなサプライズは都度張り切ってきた。
けど、そんなものは所詮、罪滅ぼしの間に合わせにすぎない。
「こんな豪華なことしてくれなくていいから、ただ亮太郎と一緒にいたい」
「亮太郎の部屋にいてもいい?ゴハン作って待ってるから。私がそうしたいの」
豪華なデートに連れ出すたびに、そう言っていじらしく微笑んでくれる明里を見るのは、耐えきれないほど切ない。
だからこそ、日曜のデートの帰りに「帰りたくない」とメソメソする明里を慰めたくて、ほとんど勢いで持ちかけた同棲だったけど…。
― こんなに幸せを感じられるなら、もっと早くから提案すればよかった。
心からそう思って後悔さえしていた俺は、なんて幼稚で能天気だったんだろう。
2つもシングルベッドを並べた6畳の寝室は、もうほとんど部屋中がベッドになったみたいだった。
明治通りに向いたベランダの窓は俺たちの熱気で結露していて、ときおり雫がつーっと、涙みたいに窓を伝っていた。
「ね、今日はクリスマスだよ。夜はどうする?何食べる?」
雫を見つめながら、ふわふわとした幸せに浸っていると、明里が健気に尋ねた。
いくら料理好きな明里でも、引っ越しで忙しかったこんな日に、凝った手料理を振る舞ってもらうわけにはいかない。
これまで明里を悲しませてきてしまった過去を振り返っていた俺は、明里の頭を優しく撫でる。
これからは、明里とずっと一緒なんだ。
今日くらいは何も考えずにのんびり過ごして欲しくて、俺はあることを提案した。
「近くのスーパーでなんか買う?この近くだとライフか、アトレ恵比寿のザ・ガーデンがどっちも徒歩10分くらいだよ。どっち行こっか」
レストランを予約することも考えたけど、年末の引っ越しなんて、何時に終わるかわかったものではない。
万が一キャンセルすることになったら、せっかく一緒に暮らし始めたばかりだというのに、今までと同じだ。明里を悲しませてしまうことだけは避けたかった。
なにより、今日はクリスマスだ。おまけに休日。街はどこも人でごった返しているし、疲れた状態で混雑した場所に行くのも明里を疲れさせてしまうだろう。
― もう、明里に悲しい想いはさせない。明里をいつでも笑顔にしたくて一緒に暮らし始めたんだから。
だからこそ今日はこの部屋で、ふたりの門出を祝うのが正解だと思った。家でのんびり、明里を休ませてあげたかった。
どうやら明里も同じ考えだったようで、「ライフ行こ、ライフ!」とはしゃいで身支度に乗り出す。
― 明里といると、本当にホッとするなぁ…。
こんなふうに息がぴったり合う子なんて、そうそう出会えるものじゃない。
ニコニコと笑顔で手を繋いでくる明里にもう一度キスをしながら俺は、過去の辛い恋のトラウマが癒やされていくのをしみじみと感じた。
スーパーから帰る道すがら、俺はとんでもないことに気がついた。
普段何げなく通っている道も、こうして明里と手を繋ぎながらだと、全く違って見える。日常の世界が明るく輝いて見える。どっさりと買い込んだ総菜の袋も、全然重くない。
その場で「大好きだ!」と明里にむかって叫び出したいような気分だったけど、どうにかぐっと堪えて帰宅した俺は、浮かれた気持ちで先立ってドアを開けた。
「明里、おかえり」
「えへへ…ただいまっ」
寒さで少し鼻が赤くなった明里がとてつもなく愛おしくて、俺は思わず玄関先で明里をぎゅっと抱きしめた。
コーヒーテーブルに並べて食べたスーパーの総菜やケーキは、これまでに渡り歩いたどんなレストランのものよりも美味しくて、猥雑に混雑した街で背伸びしているどんなカップルよりも、俺たちの方が幸せだという優越感が胸を満たした。
幸福の絶頂の中で唯一ひっかかった出来事は、食事を終えたあとのことだ。
「亮太郎。改めて、これからよろしくね。メリークリスマス」
そう言って、明里がクリスマスプレゼントを差し出したのだ。
― しまった。デートプランを練らなくていいと思ったら、プレゼントのことミスってた…!
「うわぁ、ありがとう…」
決して忘れていたわけじゃない。
これまでは、イベントや記念日は絶対に2人で会うべき貴重な機会だったから、デートも張り切っていたし、プレゼントも当日渡すようにしていた。
けれど、これからは毎日会えるのだ。頑なに日付を守らなくったって、何か欲しいものが見つかったタイミングでプレゼントしたり、事前にのんびり一緒に選びに行ってもいいと思っていただけ。
― それにしても、せめて今日までには買いに行くべきだったな。
俺と違って明里は、こういったことには生真面目なタイプなことは知っていたはずなのに…。
決まりの悪さを覚えながら、俺は鮮やかなグリーンの包みを開ける。
明里がくれたのは、ボッテガのキーケースだ。そういえばずっと前に、今使っているバレンシアガのものが古くなってきているとボヤいたことがある気がする。
すごく嬉しかったけど、俺はまた、言いようのない心苦しさを感じた。
俺が仕事で忙しいから、明里に1人で色々と考えさせてしまっていたんだとしたら申し訳ない。
「ごめん、明里…。俺、準備間に合わなくて。もう一緒に暮らすんだから、こんなふうに頑張らなくて良いのに」
なんでも言える関係になりたい。
ひとりで頑張るのではなく、ふたりで肩肘張らずに過ごせる仲でいたい。
体だけでなく、心もすぐそばに感じられる距離でいたい。
そんな想いを込めて、俺は明里に伝える。
「いいの、いいの!」
そう両手を振る明里がちょっと複雑な顔をしているように見えたのは、環境が変わったことによる緊張みたいなもの。
──その時は、そんなふうに単純に考えてしまっていた。
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亮太郎の“理想の同棲生活”は、明里とは少し違い…。明里が募らせる不満