
契約牧場からの直接仕入れと、食肉市場で開催されるセリで信頼する小さな畜産家が育てた肉を購買するなど、肉にこだわったお店が、スライスにまで気を配って作り上げたすき焼き用の肉。近江牛本来の美味しさを十二分に味わうことができます。
物心ついた頃から数えるともう50年にわたって、すき焼きを食べ続けています。たぶんこんなに長く食べ続けた肉料理は他にありません。東京の実家や正月の親戚の集まりでは割り下で煮るタイプのすき焼きでした。関西や松阪の専門店で味わう、まず鉄鍋で和牛を焼いて砂糖を降らせ、たまり醤油と昆布だしをちょんと垂らす、関西スタイルも大好きです。
スタイル、味つけ、具材……すき焼きには店の数だけ、人の好みの数だけおいしさがあります。それでもなお改めて言いたいのです。すき焼きの味を決定するのは肉だということを。
数年前の年末、初めてサカエヤの肉で自宅ですき焼きをしました。それまでもサカエヤの肉はあれこれ食べてきましたが、自宅でのすき焼きは初めてです。
まずは鉄鍋に牛脂を熱し、皿に盛った美しいロース肉を灼けた鉄鍋に広げます。ジューッという食欲をそそる音が弾けたところに、少しの割り下を垂らすと甘く焦げたような香りの煙が上がり、じりじりと筋を縮ませながら、少しずつ艶っぽく肉は表情を変えていきます。
香ばしい焼き目とかすかに残ったピンクとが入り交じるやわらかい一辺を頬張れば、和牛の深い旨みとさらりと甘いサシの味わいが、口の外にまで広がるかのよう。甘く香ばしい匂いは鼻を伝って脳髄までも蕩かします。数度の粗しゃくとは思えない、やわらかな塊が渾然一体となって胃袋へと落ちていく。喉を、食道を通る感触だけで、もううっとり。胃に落ちてなお、「うまい」と噛みしめるように口走ってしまう素晴らしい肉でした。
ざくを投入すれば和牛の濃厚な味わいと鍋になじんだ脂が、くつくつと野菜や豆腐の味わいを底上げしてくれます。そして翌日には、肉の味を思い切り吸ったしらたきを中心としたすき焼き丼へと展開します。なんならあのしらたきこそがすき焼きの醍醐味と言っても過言ではありません!
いいすき焼き肉は肉自身がおいしいのはもちろん、まわりの野菜や白飯の味わいまで深めてくれる、滋味と慈愛に満ちた存在です。
近年は熟成肉の“手当て”で知られるサカエヤですが、精肉店としての原点は近江牛にあります。もともとは「近江牛專門」の看板を掲げていたほどです。2001年のBSE発生直後、店主の新保吉伸さんは滋賀県内の生産者をくまなく回り、牛飼い一人ひとりから飼い方を聞き取りました。現在、滋賀のセリで買いつける近江牛も、新保さんが信頼する小さな畜産家が育てた肉ばかり。
人を見て、牛に触れ、肉を仕立てる。新保さん自らスライスしたすき焼き肉は、空気を含んだようなふわりとしたスライスになります。昨年末には(新保さんが腕を怪我していたこともあり)入社8年目、20代の店長、楠本了平さんがスライスした同じ生産者の肉が届きましたが、こちらは「これぞすき焼き」という王道の若々しいすき焼き肉でした。
新保さんが切った肉は他では味わえないほどふうわりと軽快。楠本さんの肉はまさしく王道の食べごたえ。どちらの味わいもすき焼き肉としては際立っています。スライサーの設定も変わりません。それでも肉を切る職人によって、おいしさは変わります。
牛飼いとの深い信頼関係にもとづく確かな仕入れ。精肉の技術の粋を込めたスライスの技術。今年の年末はどなたが切ったどんな肉が届くのか、ああ、今年も年末が楽しみで仕方がありません。