
◆これまでのあらすじ
恋人いない歴7年。恋愛をあきらめて生きてきた税理士・寿人(32)は、趣味のソロキャンプ中に結海(28)と出会う。寿人は、元カレ・研哉と関係がこじれている様子の結海を心配し、食事に誘った。
▶前回:「彼女の通話履歴を見て…」28歳男のヤバい行動。爽やかエリート社長の裏の顔とは
「お兄ちゃんちのタオル、ふわふわ〜」
お風呂上がりの華が、部屋着姿でタオルを肩にかけている。
「お兄ちゃんって案外家事ちゃんとやるよね。きれいな部屋」
「そりゃどうも」
適当にあしらいながら、寿人はお皿を洗う。
今朝、華が一人で住んでいる高円寺の実家の給湯器が、故障したらしい。修理は3日後になるそうで、「お湯が出ないとか無理」と、華は寿人の家にやってきていた。
「冷蔵庫の炭酸水、もらいまーす」
華はくつろいだ様子で、ソファにドスンと横になる。
「あーこの部屋気に入った。バイト終わりで高円寺まで帰るのがだるいとき、たまに泊まらせて」
「は?たまーーにだけだぞ」
「だって彼女いないから不都合ないでしょ。…あれ?そういえば結海さんとは、どうなった?」
寿人は、皿洗いの手を止める。
「…明日会う」
「え」
寿人は、これまでのいきさつを簡単に話した。
一昨日の水曜日、元カレが税理士事務所にわざわざやってきたこと。彼の雰囲気がなんだか怖かったこと。
「なんだか爽やかで、強い男って感じだったよ。僕みたいな冴えない人とは違って、結海さんに似合うようなイケメンだった」
華は、険しい顔をしている。
「…でも、お兄ちゃんの事務所に来るなんて、まともな大人がすることじゃないよね」
「そう思うよ。だから僕、結海さんのことが心配になって食事に誘ったんだ。出会って2ヶ月以上経つし、もういい加減、お互いの言葉でまっすぐに状況を話してみようと思って。それが明日だ」
華は炭酸水をごくごくと飲み、ペットボトルをテーブルに置く。
「いいね。聞かないとわからないことなんて山ほどあるんだから、直接話したほうがいいよ」
「だよな」
「伝えたいことを言わないで、相手のことをひっそり思ってるなんて、ムダだもん」
華は「もう告白しちゃえばいいんだよ」と言って、立ち上がる。
リビングのドアノブに手をかけながら振り返り、「だって、無難な道ばっか選んでると、のっぺりした人生になるよ」と言った。
「わかってる」
「んじゃ、お兄様のベッドで寝ます。あと、こういうの全部、洗面所に置かせてもらうね」
化粧水やらクリームやらを寿人に見せ、華はリビングを出ていく。直後「シーツと枕カバー替えたよね?」と声がした。
「うん、替えました」
「どうも〜」
華の声が、遠くなる。
「…占領されたか」
寿人は革張りのソファに横になって、結海とのLINEを開いた。
『結海:お会いできるの、楽しみにしています』
この歳になって、トーク画面を開いてニヤニヤするような日が来るとは思わなかった。
◆
「え、なんで…。本当にすみません」
「いやいや、結海さんは何も悪くないですって」
待ち合わせ当日。
寿人は、目黒にあるシチリア料理のお店に、結海を連れてきた。ウニのパスタが美味しく、サブちゃんと何度も来ているレストランだ。
― 結海さんがいる…。夢のようだな。
大げさなようだが、半個室で2人きりになった途端、寿人は本当にそう思った。
その彼女が今、ワイングラスを片手に静止し、目を丸くしてこちらを見ている。
乾杯後、すぐに結海の元カレ・研哉が訪ねてきた話を出してしまったのはさすがに早すぎたと、寿人は後悔する。
「…あの人は、寿人さんに何か言いましたか?」
「表向きは、本当に税理士相談をしてくれたんだけど、帰り際にちょっと」
「ちょっと?」
「『結海の、新しい男ですよね?』とか、『あいつと、仲良くしてるんですよね?』とか」
あのなんとも言えない恐怖心は、3日経った今も鮮明によみがえる。
でも、気にしていない、というふうを装いたくて、寿人はあえて小さく笑みを浮かべた。
「結海さんのスマホを見たらしいですよ。それで僕の名前を知って、検索して、事務所のホームページにたどり着いたんでしょう」
「…すみません。私の管理が甘かったせいですよね。大切なお仕事の時間を邪魔してしまいました」
深々と頭を下げる結海に、寿人は言う。
「あの、結海さんは、彼とのこと…大丈夫ですか?なんかちょっと、威圧感があって、僕でも怖かったから」
彼は、結海には優しいのかもしれない、そう思いながらも聞いてみると、結海は「はい」とだけ言った。そして目に涙を浮べる。
「…怖い人で。寿人さんにも怖い思いさせて、ごめんなさい」
「いや…」
結海は、これまでのことを話してくれた。
大学で出会った研哉が、社長になって変わったこと。実家のパン屋のサポートを頼んだら、見下してくるようになったこと。別れ話をした12月以来、祖母と仲が良いことを持ち出して脅してきたり、きつい言葉をぶつけてきたりなど、圧力をかけてきたこと。
そのあんまりなふるまいを聞いて、寿人は、自分の中にめずらしく荒い感情が巻き起こっているのを感じた。
― 最低なやつだ。
やっぱり、怖い思いをしていたのか。結海さんは、そんなやつとは、縁を切ったらいい。
「で、縁を切りました。やっと」
「え?」
心の言葉が聞こえてしまったようで、寿人は固まる。
「今日、私がしたかった話は、このことです。別れ話を切り出してから3ヶ月くらいかかったけれど…本当に終わりにできました。完全に別れました」
「…それは、よかった」
しばし沈黙が訪れる。半個室の外から、キッチンで調理をする音が聞こえてくる。
「心配かけてごめんなさい。ああ、今、ご飯が本当においしい」
前菜の生ハム、トリッパの煮込み、アランチーニ。涙を目尻に残したまま、幸せそうに食べ始める結海を見て、寿人は心底ほっとした。
「結海が別れた=自分が付き合える」という単純な考えは、浮かばなかった。
ただ、結海が受けた傷について想像して、寿人はひそかに涙をこらえていた。
《結海SIDE》
ウニのパスタは、あっという間になくなってしまった。空になったお皿をじっと見ていた結海は、寿人の視線を感じ、ハッと顔を上げる。
「パスタ、追加しますか?」
「へ?」
「結海さんが、お皿をじっと見てるから。もっと食べたいのかなって」
寿人が笑う。優しくからかうような、結海が初めて見る表情だった。
「もうお腹いっぱいです。でも、また来たいです」
― やっぱり、好きだ。寿人さんのこと。
寿人と出会った夜を思い出す。こするように何度も思い返した、あの楽しかった時間。穏やかで、会話のテンポが心地よくて…。
今、あのときとまったく同じように心が温まっていた。
寿人が、結海のグラスに白ワインを注いでくれる。ボトルが、空になってしまう。
「このお店。僕も気に入ってるんです」
「へえ。寿人さんって、よく外食するんですか?」
「はい、友達と色んなお店に行きます」
結海は少しだけ意外に感じ、寿人のことをまだ何も知らないのだと思い知らされる。
自分たちは、まだ、何も進んでいないのだ。
研哉をうまく切れず、こんなにも時間がかかってしまった。
なのに寿人は、連絡をしてくれたり、今日みたいに心配で誘ってくれたり、ずっと待ってくれていて…。
― 奇跡だ…。
こんなに優しくて、穏やかで、一緒にいて楽しい人に出会えたことが、結海はうれしい。
「デザート、頼みますか」
時刻は22時半。時間の流れが早すぎる、と結海は驚く。
― 帰りたくない。
言ってしまえば、寿人を困らせてしまうだろう。
でも、帰りたくない。
この慣れないセリフを、今夜なら言ってしまえる。
結海は、そんな気がした。
▶前回:「彼女の通話履歴を見て…」28歳男のヤバい行動。爽やかエリート社長の裏の顔とは
▶1話目はこちら:「自然に会話が弾むのがいい」冬のキャンプ場で意外な出会いが…
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結海が「帰りたくない」と告げたら、寿人は…?