結婚に悩んでいた28歳男が、突然プロポーズを決意。「まだ早い」と思っていたのに…

◆前回までのあらすじ

亮太郎(28)と明里(30)は同棲中。結婚願望が強い明里の気持ちに答える形で、亮太郎も結婚を考え始めていた。

しかし、亮太郎が密かに明里の妹とやりとりをしていたことが明里にバレ、明里は部屋を飛び出してしまい…。

▶前回:「何もないって言われたけど…」彼氏が他の女と連絡を取っていたことが発覚。30歳女は思わず…

Vol.14 プロポーズ<亮太郎>



予定していたCMのロケが急にバラシになったことで、月曜日の今日は有給を取ることにした。

ここのところずっとすぐれない体調を回復させるのに、まさに必要としていた休み。昼過ぎになっても、俺は大きなベッドを独り占めしてゴロゴロしていた。

しかし、体は休息を求めているのに、パジャマにしているadidasのTシャツの裾をパタパタと仰ぎ、まんじりともできずにいる。

寝付けないのは、5月も終わりに差し掛かり、梅雨らしさを帯びてきた湿気のせいというわけじゃない。

この広いベッドが。

床に脱ぎ捨てたままでも注意されない靴下が。

このガランとした部屋が。

ありありと明里の不在を物語っているからだ。

― 明里…。

ただ一心に明里のことを想いながら、俺はスマホでLINEを立ち上げる。

トークルームに残された明里からのメッセージは、1週間前から変わらずにそこにあった。

『亮太郎、昨日は急に飛び出してごめんね。

仕事が立て込んでるのもあって、ちょっとのあいだ菜奈の家でお世話になります。

心配しないでね』

何度も読んだそのメッセージ。

そして、右側に何個も残る緑色の『不在着信』の文字を確認すると、俺はまた枕に顔を埋めた。

― こんなことになるなんて、全く思ってなかった…。



先週のあの夜。

取り乱した明里の口から聞かされた話は、俺にとっては想像もできないような内容だった。

歌織ちゃんと、そして、ご両親と明里の仲がうまくいってないということは、ずっと前から知っていた。

だけど、だけどまさか…。

ご両親の手料理を食べたことがない?

歌織ちゃんに何から何まで譲らされてきた?

結婚したいと思った彼氏がいた──ということにも軽くショックを受けたけれど、その彼含め、恋人や好きな人もみんな奪われた…?

まるでドラマやマンガの話でも聞いているようで、頭がクラクラした。

けれど、普段の穏やかな明里からは想像できない形相を見るに、嘘や冗談ではないのだろう。

なによりこの口論の発端となった、歌織ちゃんから俺へのLINE。

意図不明の彼女のLINEが実際に俺の元に何度も送られてきていることが、なによりの証拠だった。

「全部、歌織に取られてきたの!亮太郎だって、歌織にとられちゃうよ…歌織は、だって、私と違って可愛いから!」

明里が漏らした悲痛なその声は、あまりにも痛々しい響きを帯びて俺の体に突き刺さった。

だけど、本当に痛みを感じているのは俺じゃない。明里だ。

「明里、ごめん…」

「……」

「ごめん、俺、全然知らなくて。見て、歌織ちゃんからのLINE。大したことは来てないし、ホラ!俺ほとんどスルーしてるし」

「……」

「歌織ちゃんになびくなんてこと、絶対に無いから!俺が可愛いと思うのは明里だけ。好きなのは明里だけだから…」

必死で喰らいつく俺に、だけど明里は、屍のように生気のない瞳で答えた。

「ごめん、しばらく落ち着かせてほしい。

…同棲なんて、しなきゃよかった」

抱きしめようとした腕はあえなく振り解かれ、気がつけば、ドアがひび割れのような音を立てて目の前で閉まった。

そうして翌日にLINEが来てから、俺は毎晩考え続けている。

「明里のためにどうすればいいのか、正解がわからない」だなんて、どうして言ってしまったのだろう。

たとえそれが事実だとしても、明里はずっと「家族の話はNG」という信号を出し続けてくれていたのだ。もっと言い方があったはずだし、なんなら別に、知る必要すらなかったのかもしれない。

家族のことがわからないとプロポーズできないなんて、平和ボケもいいところだ。

今なら明里が頑なに言わなかった理由がわかる。ぬくぬくと安定した家庭に育った俺に、全てが理解してあげられるわけがない。

考えすぎのふしがある明里の性格上、きっと、俺に見放されるかも…なんて心配までしていたに違いない。そんな明里の心中を思うと、張り裂けそうに胸が痛んだ。

そして、多分…。多分だけれど、明里があれほどまでに結婚への憧れを募らせていることにも、ようやく納得がいったような気がしたのだ。

冷たく、不信感が渦巻く家族の中で育った明里は、きっと早く自分だけの暖かい家族が欲しかったのに違いない。

その相手に、絶対的な信頼と愛情の対象に、とっくの昔から俺を選んでくれていたというのに──。

俺はなんて呑気でバカだったんだろう。一緒にいないとダメなのは明里じゃない。俺のほうなんだ。

俺は相変わらずまくらに突っ伏しながら、決意する。

「決めた。次、明里がこの部屋に戻ってきてくれたら…」



───なにがなんでも、プロポーズする。



もう迷いはなかった。明里の家族なんて、関係ない。

結婚は成人同士の意思があればいいのだ。明里が家族と折り合いがつかないのなら、俺が新しい家族になって、明里を守るだけだ。

それに、もう一切歌織ちゃんの話もしないことに決めた。これ以上、明里の心のなかをほじくり返す気もない。

そもそも、同棲しているからといって、何もかも話す必要はないんじゃないだろうか?

よく考えれば、俺が過去に浮気された話なんかも、明里には関係のないことだったのだ。

同窓会に参加していいかどうか聞いてくれたり、なるべくお酒を飲まずに早く帰ってきてくれたり…。

優しい明里は、俺のことを想って行動してくれてしまう。そしてがんじがらめになってしまう。

今ならやっと、瑛介が「束縛して安心させてもらってる」と苦言を呈していた意味が理解できる。

なんでも言えばいいってもんじゃない。

「愛し合う2人の間に秘密はないほうがいい」だなんて、そんなのは単純すぎる幻想だ。

明里にプロポーズをする。

そうと決めたら急に、視界がパッとひらけたような気がした。

もっとずっと前からこうしていればよかったのだ。

俺は、グッタリと体を横たえていたベッドから勢いよく飛び起きると、出かける支度に取り掛かる。

銀座あたりにでも行って、ティファニーやカルティエなんかのジュエリーブランドをいくつか回ろう。

そう思うと、今日ロケがバラシになったことも、気まぐれに有給をとってみたことも、全てこのためであるような気がして気分が上がった。

「えーっと、さすがにまだTシャツ一枚じゃ寒いよな。ハイブラも行くし、ジャケット、ジャケット…」

独り言を言いながらいそいそとクローゼットを引っ掻き回していると、ふとあるものが目に留まった。以前、明里が処分を提案していた、ボロボロの“NIKE Air Max 95”だった。

― 明里と生きていく。明里を全力で幸せにするんだ。

そのことだけを心の真ん中に掲げた俺に、もうボロボロのスニーカーは必要なかった。

「捨てよう」

ゴミ袋は、玄関の横の物入れにストックしてある。俺はAirMAXの箱を持ったまま寝室を出て、足早に玄関に向かった。

このスニーカーをゴミ袋に入れて、そのまま靴を履いて出掛けて、指輪を買う。

そう思って玄関の物入れに手をかけた、その時だった。



キィ…。



力なく、ゆっくりと玄関のドアが開いた。

隙間から滑り込んできたのは、1週間ぶりに会う明里だった。

俺が言葉を失ったように、明里もしばらく驚いた表情を浮かべて黙っていた。

しばらく見つめ合いながら、俺の方から声をかける。

「明里…帰ってきてくれたんだ!」

けれど明里は、困ったような顔を浮かべながら言う。

「亮太郎。この時間にいるなんてめずらしいね…。ごめん、帰ってきたんじゃないんだ。まだ少し菜奈のところにいると思う」

「え、まだ帰らないの?じゃあなんで…」

「ちょっと、物取りに来たの」

声は優しいけれど、少し張り詰めていた。

― まさか、荷物を引き上げるために?俺たち、別れるなんてこと…。

ふと湧いた自分の考えに、自分で耐えられなくなる。俺はまるで小さな子どもが母親を追うみたいに、リビングに上がりPCデスクの引き出しを開けようとする明里のあとを追った。

「何取りにきたの?」

そう聞くまでもなく明里の手元をみると、持っているのはマイナンバーカードだった。

「どうしたの?」

「うん、ちょっと。病院行くのに必要で」

「病院?えっ、病気なの?」

「いや、病気…じゃないんだけど…」

何もかも話す必要はない、なんて考えたことが嘘のように、俺は明里を質問責めにしてしまう。

明里がもしも病気なら、俺が助けてあげたい。朝ごはんだって俺が作るから、あの大きなベッドでゆっくりと休んで欲しい。

不安と心配と、それから明里への気持ちが溢れて、歯止めが聞かなかった。

だけど、次の瞬間。

そんな俺についに観念して明里が言った言葉に、俺は頭が真っ白になった。

少し痩せた気がする尖った肩を震わせて…明里は言ったのだ。

「婦人科に行くの。もしかしたら、妊娠したかもしれないから」

― ニンシン…?

その言葉の漢字が「妊娠」だとようやくわかった時。真っ白になっていた俺の頭の中は、一瞬にして“ある感情”で満たされた。

それは、確信だった。一連の全ての出来事が、明里と俺のためのお膳立てのように思える。

もう迷うことはなかった。

啓示にも似たその確信の気持ちは、目まぐるしくまた形を変え、紛れもない深い愛情になっていた。



気がつけば俺は、明里をそっと抱き寄せていた。

そして、この数ヶ月間ずっとずっと温めていた言葉を差し出す。

指輪は準備できなかったけれど、かまうもんか。次会ったら言うと決めていたのだ。



「じゃあさ…結婚しようよ」



そう言った俺の声に、迷いはなかった。



これっぽっちも、なかったのに。



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ついに決意のプロポーズした亮太郎。しかし、心待ちにしていたはずの明里は…