
港区・西麻布で密かにウワサになっているBARがある。
その名も“TOUGH COOKIES(タフクッキーズ)”。
女性客しか入れず、看板もない、アクセス方法も明かされていないナゾ多き店だが、その店にたどり着くことができた女性は、“人生を変えることができる”のだという。
タフクッキーとは、“噛めない程かたいクッキー”から、タフな女性という意味がある。
▶前回:「この人は私がいないとダメ」と相手に尽くしてしまうのは、ただの独占欲から。次第に執着心に発展し…
BAR・TOUGH COOKIESを人気女優・東条みず穂が訪れていた頃…BAR・Sneetで
― あの女優ちゃんの名前ってなんだったっけ。
BAR・Sneetのオーナーである光江は、丁度今できたばかりの系列店を訪ねているであろう人気女優の名前をきちんと思い出せないまま、目の前の美しい男をからかい始めた。
「坊ちゃんが、ともみのことを気にするようになるなんてねぇ」
「ダイキですって。大きく輝くと書いて大輝です」
「その外見で大きく輝くとか、なんだか笑っちゃうよ」
「わ、西麻布の女帝に褒められちゃった」
喜ぶ大輝に褒めてないよと呆れた光江が選んだワインは、シャトーディケムの1988年だった。ソーテルヌと呼ばれる貴腐ワインで、とろけるように甘い。
「ともみの話をしたいならこれくらいは飲ませてもらわないと」
にやりとした光江に、想像より優しいお値段だったと大輝は答えたが、メニューに載るその値段は…良心的なこの店でも1本10万円はする。
西麻布の女帝・光江への相談料は、光江の決めた酒を一杯おごること。
20代の前半の女子の時は小グラスの生ビールだったり、大輝のような特級のお坊ちゃまであれば一杯と言いつつ、ワインを一本開けることになったりと、光江がその日の気分で決めている。
店長のミチの美しい所作でグラスに注がれたディケムを一口飲んだ光江は、「うん、いい状態だ」と満足気だ。
「で、ともみがなんだっけ?」
アンタも飲んでいいよとおまけのように言い足した光江に、大輝は、オレがおごった酒のはずじゃ…?と笑いながら、さっきの質問を繰り返した。
「光江さんが2店舗目を女性客オンリーで作ったことも意外だったけど、そのコンセプトでともみちゃんに任せた理由が、尚更気になっちゃって」
「つまり、アタシがともみを店長にした“本当の狙い”とやらを教えろと?」
「ただ女性客オンリーっていうだけじゃなくて、女の子の話…というか悩みを聞く店なんですよね。それが腑に落ちないんですよ。だってともみちゃんってそもそも……」
「そもそもってなんだよ。もったいぶるねぇ」
光江にからかうように急かされ、大輝は笑いながらも慎重に言葉を探した。質問の言葉を間違えれば、光江が答えてくれなくなる可能性もあるからだ。
「なんというか…ともみちゃんは自分にもだけど他人にも厳しいでしょ?
人は人、自分は自分っていう境界線がはっきりしてるし、他人に依存も、もちろん頼ることもしない。その上、人生の全てが自己責任だと思ってる人だから、他人の悩みには興味がなさそうというか、共感しなさそうというか」
「アンタ、結構ひどいこと言うね」
「いやオレ、褒めてるつもりですよ、本気で。それが彼女の魅力だと思うし」
至極真剣な顔できっぱりと言い切った大輝に、まあそれはそうと、と光江が続けた。
「オープンして1週間たつけど…ともみはアンタになんか愚痴ったかい?」
「いえ全然。オレも心配だったから、営業どうだった?とは聞きましたけど、さらっとかわされました。むしろ新しい店の話はしたくなさそうだったし」
誰に聞いたわけでもなかったが光江は、大輝とともみの関係が“どんどん近づいている”ことに気がついていた。
それは、ともみはともかく、大輝の方に隠すつもりが全くないというその悪びれなさのせいなのだが。
大輝という男はかなり厄介だと光江は思う。厄介なのは圧倒的に美しい外見のせいではなく、大輝が今も“迷子の子どものまま”が故だ。だから…。
― ともみにこのお坊ちゃんの相手が務まるとは思えないねぇ。
ともみはそのルックスとそつのない受け答えのおかげで、一見恋愛上級者に見えるし、遊びの恋ならいくらでも経験があるだろう。
“美”にすこぶる弱く、美しい男を見ると仕掛けて落としたくなるという癖もある。大輝と出会って以来、大輝に他の想い人がいると知った上でのアプローチを続けていたのも、まさに彼女の癖によるもので、狩りのような駆け引きを楽しんでいるように見えていたが。
実はともみの恋愛偏差値はすこぶる低く、もしかすると本気の恋と呼べるものは…一度も経験がないのではと光江は思っていた。
本気の恋というものは“人は人、自分は自分”では成立しないからだ。相手のテリトリーに踏み込む、そして自分のテリトリーへの侵入も許す。
そうやって相手と自分の境界線をぐちゃぐちゃに曖昧にするようなことに、ともみが興味がないのだから。
実はそれこそが。大輝の質問に置き換えるのならば、光江が“ともみを店長にした本当の狙い”の1つでもあった。けれど、ともみ本人にもまだ伝えていないことを、大輝にあっさりと教えてしまうのは面白くないと光江は言葉をひねることにした。
「ちなみにアンタがともみに手を出したのは何でだい?」
「うわ、ド直球きた」
やっぱり俺が手を出したってことになっちゃう?とふざけた口調になった大輝を光江は逃がさなかった。
「別にアンタを責めてるわけじゃない。大人なんだからお互いの合意があれば自己責任だろ。アタシは今、アンタの最初の質問に答えてるだけさ」
「え?…ってことは、…つまり、オレがともみちゃんに手を出した理由が、光江さんがともみちゃんに“店長を任せた本当の狙い”ってことですか?」
理解が追いつかないことを隠さずに聞いた大輝を、素直な男は嫌いじゃないよと光江が笑った。
「アンタは元々…というか長いことともみのアプローチをかわし続けてきたろ?それをなぜ、受け入れることにしたのか。その自分の動機を思い出してみてごらんよ」
ともみと大輝が出会ったのは約3年前。ともみが大輝に一目ぼれをした。以来、デートに誘い続けていたのはともみの方で、その度に大輝が断っていたことはこのBar Sneetでは周知の事実だった。
― それにしても。
Sneetで働き始めた頃はネコをかぶりまくっていたともみも随分変わった。場に合わせてはしゃぐ“ノリ良く明るい女の子”を演じなくなり、少なくとも光江の前では本来のともみを見せるようになった。
― 実は根暗っていうのはともかく、真面目過ぎるのが問題なんだけどさ。
ともみの素顔は思うより幼いのだと、光江の頬は緩む。
考え込んでいた大輝が、ダメだ、と眉を寄せた。
「光江さん降参です。さっぱりわからない。もう少しだけヒントをくださいよ」
「ヒントねぇ。アンタが失恋したからガードが緩んだから受け入れたっていうウワサもあるけど、それもヒントと言えばヒントかねぇ」
「…っていうか、オレの恋愛のこととか、どこから調べてくるわけ?…あ、でももし宝のことを言ってるんだったら、ノーです」
宝とは大輝がこの西麻布で出会った親友で、今は2つ星レストランの有名シェフと結婚しパリで暮らしている女性だ。大輝が宝に告白してフラれたという話も、この店ではまた周知の事実なのだが。
「そんなことはわかってるよ。宝ちゃんに対してのアンタの情は…アタシには全く恋愛には見えなかったからね。生まれて初めて眩しいものを見た衝動でその光に惹きつけられちゃって舞い上がった感じだったじゃないか。保護欲みたいなもんだろ。
その光がたまたま異性だったから恋愛と勘違いした。それにアンタも気がついたからこそ、今は胸を張って親友だと呼べてるんだろうに」
「…光江さん、もうやめてくれない?」
当時の自分の混乱を、こうも明確に言語化されてしまうのは…と大輝は恥ずかしくなり、そして珍しく、ほんの少しだけバツが悪そうな表情で続けた。
「でも、ともみちゃんにも伝えてありますよ」
「なにをだい?」
「オレがある人にフラれて…失恋したから、ともみちゃんの誘いにのったこと」
ある人って宝ちゃんじゃないですよと笑う大輝に寂しさがよぎったのを、光江は気づかぬふりをして聞いた。
「ともみはそれでもいいといったんだろ?」
「…そうですけど」
「ならいいじゃないか。繰り返すけどアタシは責めてるわけじゃない。アンタの質問に答えてるだけさ」
光江がグイっと飲み干したグラスに、店長がソーテルヌをつぎ足す。そのグラスをくるくるとまわし、蜜の甘さを持つ黄金色を愛でたあと、光江の瞳がじっと大輝を捉えた。
「その失った恋とやらは、アンタにとって本気の恋だった?」
虚を衝かれたように一瞬固まったあと、大輝はふにゃりと困った笑顔になった。
「はい、間違いなく」
「本気でその人を愛してた?」
「愛していました」
「じゃあ、ともみのことは?」
「…それは…」
「ともみのことは本気とは言えないだろ?」
言葉を出せない大輝を、ウソがつけない男でかわいいねぇ、と光江がからかう。
「そういうともみだからこそ店長にしたんだよ。希望を込めてね」
「…どういうこと…?」
「答え合わせは…そうだね、このワインが空くまでなら付き合うよ」
そう言うと光江はすでに中身が半分ほどになったボトルを指さした。アルコールに強くない大輝は3杯でほんのりと酔いが回り、その夜は光江の謎かけの答えにたどり着けぬまま。
次にアタシと会う時までに答えを出してきな、と光江に宿題を出されてSneetを去ることになったのだった。
◆
「うれしそうですね、ボス」
普段口数の少ない店長のミチが光江をボスと呼ぶ時はいつも、そこにからかいのニュアンスが含まれている。
「うれしい誤算だよ。大輝がともみを揺さぶってくれるのがね」
大輝が去った後、空になったソーテルヌのボトルを手にして眺めていた光江は、それを置くとジントニックを頼み、さりげなく店内を見渡した。
閉店間近で、残りの客は2組。30代と思われる同世代カップルと、女性がかなり年上と思われる年の差カップル。こちらはおそらく不倫だろうと光江の勘が働く。
ジントニックが光江の前に置かれたとほぼ同時に、流れる曲が変わった。
― Here’s To Life(ヒアーズ トゥ ライフ)
アメリカの女性ジャズシンガー、シャーリー・ホーンが、“自分の人生には不満も後悔もない”としっとりと歌い上げる名曲だ。
この曲が発売されたのは歌い手であるシャーリーが60歳になろうとしていたときだったっけ、と光江は記憶をたぐりよせる。
『過去が正解だったのか、明日がどうなるのか、その答えは誰にもわからないのだから悔やみ怯えても仕方がない。だから私は1日1日を慈しみ笑って楽しむ。そうすれば、人生というゲームを、ただ愛のために進んで行くことができるのだ』
自己流和訳に脳内で変換しながら、光江はその歌詞に自分を重ねる。
― 過去を悔やんで未来に怯えるなんて感覚は、アタシも…とうの昔に忘れちゃってるからねぇ。でも。
ともみを思いながら、光江はジントニックを口にする。
― ともみ、アンタが忘れるにはまだ早いし、逃げるのもダメだ。後悔だろうが怯えだろうが、アンタを揺さぶるものから目を背けるな。今度こそ、ね。
◆
「まさか、旅行に行きたいって言われると思わなかったな」
中目黒のともみの家の前まで迎えに来てくれた大輝が、助手席のドアを開けながらそう言った。
「私もまさかだったよ。旅行なんて断られると思っていたから」
「なんでオレが断るの?」
キョトンとした大輝が、ともみが助手席で態勢を整えたのを確認してから優しくドアを閉める。
― だって、今までデートすらしたことないのに。
そんなともみの心の内には気がつかぬまま、大輝は運転席に乗り込むと、「コーヒーあるよ」とドリンクホルダーを指してから車を発進させた。車は雄大からの借りものらしい。雄大は大輝が兄とも慕うSneetの常連客だ。
「SUVとか雄大さんっぽくないねって言ったら、愛さんがキャンプにはまっちゃったらしくて、それで買い替えたみたい。あの2人ついに入籍の準備が整いそうなんだけどさ」
この車、トヨタのハリアーって車種でハイブリットなんだって、という、とりあえずといった感じの説明から大輝が車には興味がないのだろうことが分かった。そして話はすぐに愛と雄大の恋物語に移る。
「一度別れた2人が、長い時間を経てまた結ばれるってすごいよね。しかも結婚ってさ。まああの2人の場合、恋愛だろうが友情だろうがずっとつながってたし、結局はお互いを大切に思う気持ちが強かったんだろうけど。
そんな相手が見つかるなんて奇跡だよね、ほんと」
羨ましそうにほほ笑んだ大輝の横顔に、そうだねと相槌を打ち、ともみは窓の外に目を逸らした。
― やばい、緊張、なのかなこれって。
むず痒いソワソワ感。好きな男と2人旅となると、こんなにも落ち着かなくなるものなのか。
― …好きな男、か。
脳裏に自然と浮かんでしまったその単語にもう笑うしかない。ずっと認めるのが怖かったけれど、ここ数日でともみはようやく諦めて、自分の気持ちを受け入れる覚悟をしたばかりだった。
だから、誕生日のお祝いは何がいい?と聞かれた時、ともみは泊まりで旅行に行けないかと答えたのだ。
約束を求めるのはいつもともみからで、大輝から誘われたことは一度もない。一緒に泊まる前に食事をすることはあっても、それは大輝にとってこれから夜を過ごす女性への最低限の礼儀のようなものなのだろう。
そもそも大輝はともみと深い関係になることを望んでいなかったし、今は真剣な恋愛を求められても無理だと、ともみのアプローチを断り続けていたのだから。
けれど断られるたびに、ともみは軽口で応戦し続けた。
「私は大輝さんのルックスがドタイプなだけですから。大輝さんの中身とかその先の未来に期待なんてしてないから大丈夫ですよ」
そしてタイミングも良かったのかもしれない。ともみがアプローチを続けている間に、大輝の恋が終わりを迎えたようだったから。
「そこまで徹底的に外見にしか興味がないって言ってもらえると、いっそ清々しいね」
呆れたような、それでいて色っぽい笑顔を向けられたのは、Sneetの営業が終わった後、ともみと2人きりで飲みに行くことを初めて大輝が受け入れてくれた日だった。そして。
「オレって呪いでも掛けられてるのかって思うよ。本気で好きになった人とは絶対にうまくいかないっていう呪い」
そう笑う大輝の話を慰めるでもなく聞いている間、ともみはこの人がどうしても欲しいと思った。ただ一夜でもいいから欲しい。そしてともみの方から仕掛けたのだ。
― ほんとに…こんなつもりじゃなかったのに。
駆け引きは得意なはずだったのに。ただ、とびきり美しいだけの男だと思っていたのに。まさに底なし沼のような男だと気づいた時には、もう、手遅れだった。
▶前回:「この人は私がいないとダメ」と相手に尽くしてしまうのは、ただの独占欲から。次第に執着心に発展し…
▶1話目はこちら:「割り切った関係でいい」そう思っていたが、別れ際に寂しくなる27歳女の憂鬱
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