
世の中は「ブラック企業」「人手不足」というような言葉に代表される仕事への悲壮感に溢れているが、本当の絶望はそんな優しいものではない。石の上にも3年なんて通説は真っ赤な嘘で、3日で逃げるべき仕事が世の中にはたくさんある。はりぼての労働基準法は多くの労働者を強固に守っていない。
「労働基準関係法令違反に係わる公表事案」(厚生労働省)に挙げられている事例は、過去2455件にものぼる。そして、現在でも400以上の企業が掲載され続けている。
そんな現状からに逃げたくて人は、必死に独創的で自分にしかない生き方を模索したりするけれど、大抵は努力実らず行きたくない職場にしぶしぶ足を運ぶのだ。
かういう僕もそんな中で疲弊し、さまざまな職種を転々としてきた。ハローワークから大手求人誌、日雇いサイト、電柱に貼られた蛍光色の紙に書かれた求人まで、いろいろな媒体で求人に応募し、実際に働いた中で僕が出会った「ブラック企業」を超えた「漆黒企業」をご紹介したい。
◆「辛さトップクラス」の日雇い引っ越しバイト
皆さんは日雇いバイトで“もっとも辛い仕事”を想像した時、何を思い浮かべるだろうか。
僕が思うに一番辛いのは間違いなく「引っ越しバイト」である。重い荷物を運ぶのはもちろんだが、3人掛けのトラックで移動する際には両隣のおっさんが煙草を吸っていたりする。さらに社員の多くは日雇いバイトを見下し、常に怒鳴り散らしていてとても穏やかな現場とは言えない。
とはいえ人が集まらないせいか時給はかなり高めに設定されており、時給換算1500円以上もらえる現場もざらにあった。手っ取り早く稼ぐならおあつらえ向きの選択肢である。この考え方は怠け者特有のもので、バイトに集まるのも『賭博黙示録カイジ』に登場するような青年や老人がほとんどだった。今回は僕が日雇いバイトをする中でもっとも大変だった話をしていきたい。
◆集合場所にいたのは…
水道代を今日までに支払わなければ止まってしまうーーそんな焦燥感に駆られた僕は引っ越し作業の日雇いバイトに急いで応募し、朝の集合時間に遅れぬよう現場に到着していた。業務は8時30分から18時、時給は1500円と条件は悪くなかった。同じアプリから日雇いに応募したであろうだらしのない老人が数人(公営ギャンブル場にいそう)。あと僕だけが出発の準備に忙しそうにしている社員の中でボケっと突っ立っており、時間が過ぎるのを遠い目をして待っていた。
しばらくすると出発の準備が整ったのか、僕と老人のうちの一人が同じトラックに乗るように指示され、狭い3人シートの中央に詰め込まれる。ほぼ同時に、40代でスキンヘッドのおっさん社員が険しい顔で運転席に乗り込んできてトラックはすぐに出発した。「石崎です。今日はよろしくね。この会社初めて?」と運転の傍らで僕らに聞いた。
◆現場に向かう車内の時点で不穏な空気が…
「初めてです。千馬と言います。よろしくお願いします!」
僕は元気よくそう答えたが、隣の老人は返事がない。すぐに「おめえにも聞いてるんだよな!!」と石崎さんが怒鳴ると、老人は少しびくっと肩を震わせて「初めてです」と蚊の鳴くような声で言った。「今日はハズレだな」と極めて機嫌の悪そうな石崎さんにかける言葉もなく、車内は静まり返ったまま、午前の現場に到着した。
まず引っ越す家の荷物を運び出すため、社員と僕は養生を始めた。言わずもがな床や壁を傷つけないためだ。だが、老人はほとんど動かず立ち尽くしている。養生を知らないのかもしれないが、“常識”を教えられるほど暇ではない。引っ越しは時間との戦いなのだ。僕が何度か老人に目くばせしたタイミングで「てめえ動けよボケがよお!!」と石崎さんが怒鳴り始めた。
老人はまた肩をびくりと震わせ、僕の隣にピタッとくっついた。内心僕が「邪魔だ……」と思っているのが石崎さんにも伝播したのだろう。「てめえそんなとこにいたってしょうがねえだろうが!!」とまた大きな声で威圧している。見かねた僕は石崎さんに養生がなんなのかを伝え、自分が担当する箇所の作業を急いだ。
◆明らかに動きが遅い。やまぬ罵倒
そうして養生が終わると荷物の運び出しだ。特に狭い道では家の前にトラックを停めている状態が長く続いてはいけないため、この時間をどれだけ短縮するかが大切になってくる。僕と石崎さんは大型の家具家電を、老人は両手でやっと一つ持てる大きめの段ボールを中心に運ぶように采配され、その通りに動き始めた。
だが、動きが明らかに鈍い。僕らが白物家電ひとつ運ぶまでに段ボールが3つしか運び出されていない。僕か石崎さんが段ボールを担当していたら倍は運び出せるだろう。冷蔵庫を挟んで「てめえ段ボール一個に何分かけるんだよボケがよ!!」と声を荒げる石崎さんを見ているとなんだか僕が怒られている気分になった。
さっさと家具家電を運び出した僕達は、すぐに老人の倍の速さで段ボールを詰め込み、引っ越し先に向け出発した。「千馬君さあ、このボケ老人何とかしてくれよ!!」といった暴言には心が痛んだが、小さく縮こまって一切反論しない老人を見ていると、いくら罵倒されても仕方がないように思えてきた。
◆ようやく打ち解けてきた気がしたのだが…
とはいえ、あと6時間は一緒に働く仲間なので、ふたりの間を取り持てるよう、なんとなく世間話を振ってみた。「おふたりはどちらにお住まいなんですか? 僕は蒲田なんですけど」というと石崎さんは「俺は平和島、ボートレース好きでさ」と答えてくれた。老人は何故か無言だ。それを見て石崎さんが僕に耳打ちした。
「千馬君、こいつその辺に置いてってもいいんだけどどうするよ。いても戦力にならねえじゃん」
確かにいてもいなくてもそんなに変わらないが、確実に僕の業務が増えるため「いやいや、これから身体暖まっていい感じに動いてくれますよ」とフォローして、返事を濁した。
そのまま石崎さんとボートレース界の黒い噂について話し続けること30分。荷物を降ろす引っ越し先に到着して再び養生を始める。老人も怒られないように養生を手伝う素振りを見せていて、石崎さんも少し彼を見直したような表情を見せた。
「おい、お前名前は?」
「波多野です」
ようやく老人の名前がわかったところで荷物の運び入れがスタートした。引っ越し先は厄介なメゾネットタイプの集合住宅で、狭い階段をのぼる必要があった。ここで波多野さんが大事件を起こすことを僕らは予想できなかった。
◆冷蔵庫を運んでいる途中、死にかけるハメに
再び家具家電を僕と石崎さんで担当し、波多野さんに段ボール類をお願いする采配がとられた。波多野さんも少しスピードを上げる意識が出てきたようで、荷物に足を震わせながら頑張る姿に好感が持てた。これなら少し早めに業務が終わるかもしれないと僕も石崎さんも元気が出てきた。
ところが、僕らが階段の壁に冷蔵庫をぶつけないように運んでいると、上から大型の段ボールが落ちてきた。その段ボールは先頭をいく石崎さんにぶつかり、そのまま僕と冷蔵庫が階段を落下した。
「波多野てめえ何やってんだよぶっ殺すぞ!!!!」
本当に罪を犯しそうな声でそう叫ぶのを聞きながら、僕は冷蔵庫の下敷きになっていた。長袖のおかげで擦り傷程度のけがで済んだが、あわや死人が出る大惨事だ。そして当の波多野さんはというと、高みの見物でなぜかにやにやと僕らを眺めている。
「千馬君、今冷蔵庫どかすから待っててな。波多野、お前もうトラックで待ってていいから」
そうして石崎さんに冷蔵庫をどかしてもらい、僕らはふたりで午前の現場を終えた。幸い物件や荷物に破損はなく、僕らはクレームにならなかったことを安堵しながらトラックに乗り込み、午後の作業に向かった。
◆「降りなきゃ殺す」と脅されるも抵抗し…
「波多野、ミスはしょうがないけどお前やる気あるの?」
石崎さんがそう問いかけても波多野さんは何も言わず、ただ俯いていた。その様子をみた石崎さんの堪忍袋の緒が切れる音がトラックに響いた気がした。
「お前助手席のドア開けて今すぐ降りろ、降りなきゃ殺す」
石崎さんがそう言った場所は3車線が通る大きな道路の真ん中で、流石の波多野さんも小さな声で「路肩に停めてください」と要求した。だが石崎さんは「ここで今すぐ降りろ」と引き下がらない。
それでも降りようとしない波多野さんの顔面を握り、拳で数回殴った石崎さんは上体を寝かせつつ助手席を開け、そのまま器用に身体を反転させて波多野さんを蹴りだした。「千馬君、早く閉めろ」と僕に助手側のドアを閉めさせ、そのまま一気にアクセルを踏みこんだ。
◆怖くて後ろを振り返ることができなかった
波多野さんが蹴りだされた車線では乗用車が結構なスピードで走っていて、背後からは大きなクラクションが響いてきた。僕は怖くて後ろを振り返ることができなかったが、それと裏腹に石崎さんはスッキリしたようだ。
「あんなやついっぺん車に轢かれればいいんだよな!」と僕に笑いかけたあと「千馬君って競輪も見るの?」などと軽口を叩き始めた。ジキルとハイドが交互に入れ替わるさまを目の当たりにし、ただただ恐ろしかった。
もう一軒引っ越しをしてその日の業務を終え、事務所に戻った。「千馬君、また来てね♡」と石崎さんが手でハートマークを作っていたけれど、僕はそれを半ば無視して駅まで走った。
次に何か大失敗して道路に蹴りだされるのは、「僕なのかもしれない」と考えたら気が気じゃなかったのだ。結局、それ以来引っ越し屋での日雇いバイトには行っていない。
◆千馬流“肉体労働をうまくやり過ごすコツ”
最後に僕が知る肉体労働系のバイトをうまくやり過ごすコツを3つ伝授したい。
「明るく元気のいい挨拶」
「怒られたら必要以上の大声で謝って濁す」
「ギャンブルについて一定の知識を有しておく」
肉体労働系おっちゃん社員の多くは「元気で」「ギャンブルの話ができる」「声のでかい」若者が大好きだ。ギャンブルという共通言語で移動中に退屈させず、かつでかい声でやりとりをしていれば、大抵帰りはニコニコ顔で見送ってくれるものである。もちろん仕事ができるに越したことはないが、これらを実践する方が業務の習熟度や体力面を磨くよりよっぽど楽で簡単なのだ。
この記事を書きながら、僕はいつからこんな打算的に仕事をするようになったのだろうと虚しくなった。昔はもっとまっすぐな気持ちで汗水垂らして働いていたものである。汚い大人になってしまったことを少し悲しく思いながら、パソコンの電源をそっと落とした。
<TEXT/千馬岳史>
【千馬岳史】
小説家を夢見た結果、ライターになってしまった零細個人事業主。小説よりルポやエッセイが得意。年に数回誰かが壊滅的な不幸に見舞われる瞬間に遭遇し、自身も実家が全焼したり会社が倒産したりと災難多数。不幸を不幸のまま終わらせないために文章を書いています。X:@Nulls48807788