
◆前回までのあらすじ
同棲中の明里(30)と亮太郎(28)。
ついに明里にプロポーズをした亮太郎だったが、明里は妊娠疑惑のために亮太郎が無理に結婚を決めてくれたのだと勘違いする。さらに。まだ家族を持つ覚悟ができていないことに気づいた明里は、亮太郎との関係を見直すことを密かに決意するのだった。
▶前回:待ち望んでいたプロポーズをされた30歳女。しかし、その瞬間感じた違和感とは
Vol.16 近くて遠い 遠くて近い
2025年4月 <明里>
同棲がはじまった1年ちょっと前のクリスマス。
私の目に映っていたのは、1LDKの部屋に運び込まれるシングルベッドだった。
12月の明治通りには珍しくちらちらと雪が舞っていて、粉砂糖みたいな細かい雪の粒がシングルベッドに触れては消え、触れては消えていた。
あれから1年ちょっとが経った4月初旬、桜の花びらが舞い散る中、私の目に映っているのは、1LDKから運び出されていくベッドだ。
― 本当に亮太郎と一緒にいたいのか…次の誕生日が来るまで、もう一度ちゃんと考える。
私が密かにそう決意した2024年の7月から、約9ヶ月の月日が経っていた。
その間、明治通りの桜の木は、青々と茂り、芳醇に色づき、寒々しい裸の幹を晒した。
そして4月を迎えた今は、淡いピンク色の花を溢れんばかりに咲き誇らせている。
ひらひらと舞い散る桜の花びらは、あのはじまり日の粉雪と重なって見えた。
「明里。家電…電子レンジとか、本当に持っていかなくていいの?」
「うん、大丈夫。菜奈のマンション、ほとんど置いていくみたいだから」
引っ越しのトラックを側目に、私は亮太郎とぽつりぽつりと会話を交わした。
全て話すと決めた、2025年3月<亮太郎>
― ちゃんと、話すんだ。
今、俺のパンツのポケットの中には、ティファニーブルーの小さな箱がその存在を主張している。
今は3月。明里に勢いだけのプロポーズをしてしたのは、もう8ヶ月も前のことだ。妊娠しているかもしれないと病院に行った直後にプロポーズをした。
「急いで決めないで、ばっちり準備してプロポーズしてほしいな!ティファニーの指輪かなんかパカっとしてさ」
そんな言葉でやんわりと断られてしまった以上、準備を怠るわけにはいかないだろう。
本当は、もうすぐやってくる明里の誕生日に渡すつもりだったけれど、再プロポーズの機会は思わぬタイミングでやってくるものだ。
ダイニングテーブルに座った明里が、俺の顔をまっすぐに見つめている。
明治通りに面した広い窓から、差し込む陽の光。その光を浴びて穏やかな表情を浮かべる明里は、ハッとするほど綺麗だ。
だけど、なぜだろう。こうも思わずにはいられない。
― 明里が、遠い。
今繋ぎ止めることができなければ、永遠に明里を失ってしまいそうな気がして…。明里の誕生日を目前に控えた今、予定していたよりも早く本当の気持ちを伝えることにしたのだった。
「明里」
「うん」
「俺、明里のことが本当に大好きだよ」
「うん…」
「だから、改めてちゃんと言うね。俺と結婚してください」
この瞬間を迎えるために、8ヶ月間、俺なりに努力をしてきたのだ。
まず、俺の家族を明里に会わせた。
実家に連れて行った時の、親父と母さんの驚いた顔…。
「まさかこんな立派な女性とお付き合いしているなんて」としきりに恐縮してばかりで、釣られて俺までなんだか緊張してしまったことを覚えている。
それから、迷ったけれど、歌織ちゃんのLINEはブロックさせてもらった。
結婚するからには、ご家族にも筋を通したい。初めはそう考えていたけれど、明里にとってはそれも酷なことなんだと思う。
どうしても折り合いが悪いのなら、無理することはないはずだ。少し居心地は悪い気がするけれど、明里の気持ちに寄り添いたい。
それに何より、ずっと捨てそびれていたあのボロのAir Maxも捨てたのだ。
明里に「捨ててほしい」と言われた、俺の宝物。大切なものだったけれど、明里のためだったら惜しくない。
あのAir Maxは、過去の俺自身のようなものだ。
明里のために生まれ変わる。その決意を揺るがせないためにも、それは必要なことだった。
このことは、いっさい明里には伝えていない。
母に、「あんな立派な女性のお相手、あんた務まるの?」と心配されていることも。
歌織ちゃんのCMの、第二弾の企画が上がっていることも。
少しずつ集めていたスニーカーのコレクションを、おしまいにすることも。
明里には関係のないことだからだ。
同棲しているからといって、何もかも話す必要はない。
なんでも言えばいいってもんじゃない。
「愛し合う2人の間に秘密はないほうがいい」だなんて、そんなのは単純すぎる幻想。
それが、それこそが、俺が明里との同棲で学んだことだったから。
ポケットからティファニーの箱を取り出して、明里の目の前に差し出す。
そっと箱を開けて見せると、リングのダイヤが陽の光を受け止めてキラキラときらめいた。
光が散乱して、部屋中に投影される。まるで一面の星くずだ。
宇宙になったような1LDKで俺は、祈るように、縋り付くように、宙に浮くような心許ない気持ちで、明里にダイヤを押し付ける。
だけど、明里から返ってきたのは───。
「亮太郎…ごめん…」
絞り出すような声と、どんなダイヤよりも、どんな星よりも綺麗な、一粒の涙だった。
全て話すと決めた、2025年3月<明里>
亮太郎はプロポーズしてくれた。
「ごめん…亮太郎。ごめん、ごめんね…」
テーブルを挟んで向かいに座る亮太郎の表情は、窓から差し込む光が逆光になって、よく見えない。
だけど、差し出してくれたリングのダイヤは、残酷なほど対照的にキラキラと光り輝いていた。
まるで一面の星くず。
きらめく光に満ち溢れた1LDKで私は、たったひとり、宇宙を漂流しているみたいに孤独だった。
― 亮太郎が、遠い。
近くにいるのに、遠い。ダイニングテーブルの向こうの亮太郎は、はるか彼方にいるように感じる。
妊娠疑惑でしてくれたプロポーズを、受け流してからの8ヶ月。
本当に亮太郎と一緒にいたいのかを考えるために、私なりに努力をしてきたつもりだった。
だって私たちは、同棲しているのに、お互いに何も知らなかったから。ただただ、“楽しい今”を共有するだけの2人だったから。
― もっと亮太郎を知りたい。ちゃんと本音でぶつかり合いたい。
そう決意して亮太郎に──私たちふたりの関係に、向き合おうとした。
だけど、どうしてなのかわからない。なぜだか亮太郎との距離は、どんどん離れていくような気がした。
ご家族にも会わせてもらった。
私には何も言わないけれど、どうやら歌織とも連絡はとっていないみたいだ。
それになにより、こうしてプロポーズまでしてくれている。
この全てが、同棲がはじまったころの出来事だったら、どんなに嬉しかっただろう───。
だけど今の私は、同じくらい重大なことを亮太郎に伝えなくてはいけないのだった。
「亮太郎。私、来月出て行くね。同棲……解消しよう」
亮太郎がどんどん遠くなるなか、菜奈が年始に持ちかけてきた話は、私には天啓としか言えなかった。
「明里、ごめん。4月から、私フルリモートになってもいいかな…?」
「えっ、どうしたの?」
「実は、旦那がイギリス駐在になって。柄にもないって笑うかもしれないけど、付いて行きたいんだよね」
青山のオフィスにわざわざ私を呼び出した菜奈は、気恥ずかしそうに身をよじらせる。
「ほら、ここのところ長期の出張がずっと続いてたでしょ?いざ離れてみたら、やっぱり一緒にいたいなって思うようになってきたんだ…」
「…うん…うん!そうだよね。もちろん大丈夫だよ!そういう時のためにこうして共同経営してるんだし。国内の細々したことは、私に任せてよ」
菜奈の決断にしみじみと感じ入る私を見て、菜奈はぎょっとした顔を浮かべる。
「ちょっと明里、大丈夫?ねえ、ちょくちょく帰ってくるからそんな顔しないでよぉ〜」
気がつけば私は、自分でも信じられないほどに涙を流していた。
「ねえ、無理そうだったら私、行かないよ!」
「ううん、違うの。菜奈、カッコイイよ。そうだよね。一緒にいたいなら、一緒にいるべきなんだよ──」
同棲をはじめた日。私は世界で一番幸せだった。
シングルベッドをふたつ並べて抱き合ったあの時、私はただただ亮太郎を愛していた。
一緒にいられるだけで、どんな悩みだって幸福のうちに溶け去ってしまえた。
だけど、いつの頃からなんだろう。
「結婚したい」という焦りが大きくなっていった。
歌織に奪われるかもしれないという危機感に駆られていった。
他の人を見てみたいと思ってしまった。
同じ部屋では見透かされる気がして、それすら出来ないつまらない自分を見つけてしまった。
自分の弱さを突きつけられてしまった。
そして今はとうとう、亮太郎への気持ちを確認しようなんていう、想像すらしなかった迷宮に迷い込んでいる。
…私は、亮太郎のことが大好きだ。
だけど今は、菜奈みたいな気持ちで。昔みたいな気持ちで。大好きな亮太郎と、ただ一緒にいたいとは思えていない。
とっくに気づいていたのに、認めることが怖かった。
同棲が壊れることは───私の世界が壊れるということだったから。
「同棲、解消しよう」
唐突すぎる言葉のはずだったのに、亮太郎は取り乱すこともなく静かに答えた。
「…なんとなく、そう言われる気がしてた」
亮太郎は笑っていた。
私は、自分から言い出したことなのに、泣いていた。
「でもね、亮太郎」
「うん」
「私、亮太郎が大好きだよ…」
― ちゃんと、話さなきゃ。
傷つくのが怖くて、傷つけるのが怖くて、私も亮太郎もこれまで本音を言い合うのを避け続けてきたんだと思う。
家族のこと。
結婚のこと。
過去のこと。
未来のこと。
他の可能性のこと。
どんな気持ちで、亮太郎を好きでいるかということ。
不思議と、同棲を解消すると決めた今なら言える気がした。
決して広くないこの1LDKの部屋は、すぐ近くにいる大好きな人を、はるか彼方に感じるくらいに果てしない。
だけどそのぶん、どんなものでも詰め込むことができるはずだ。
過去も未来も───その気になれば、愛する人が大切にしているボロのスニーカーだって。
4月。遠くて近い<明里>
「ねえ、本当にベッドだけでいいの?明里が選んだダイニングテーブルだって、持って行っていいんだよ」
心配そうに問いかける亮太郎に、私は眉をひそめる。
けれどその目は優しく細められていて、うとましげな態度が演技であることは明らかだった。
「も〜。何度も言うけど、菜奈が日本を留守にしてる間、部屋の管理を頼まれてるんだってば!
家具も家電も全部あるけど、ベッドだけは夫婦の使ったら悪いから持って行くの!」
「わかったけどさぁ…。…明里がいないと俺、寂しいよ」
そう言って亮太郎は肩を落とす。
「私も寂しい。ね、明日のCM撮影で歌織にどんなちょっかい出されても、そのままでいてね。週末また泊まりに来るから」
引っ越しのトラックをふたりで見送ると、私はタクシーに乗り込んだ。
「バイバイ、亮太郎!」
「じゃあね、明里」
後部座席の窓から、マンションを見上げる。
さっきまでふたりの部屋だった場所は、ベッドが運び出された今、すっかり恋人の部屋に姿を変えていた。
タクシーが出発する。
ぐんぐんと遠ざかる亮太郎の姿はだけど、1ヶ月前に亮太郎からプロポーズされた時とは比べものにならないほど近くに感じる。
同棲の惰性で結婚しても、きっとうまくいかない。
大切なものを捨てなくてはいけない関係では、一生を共に過ごすことはできない。
それなら───もう一度、確かめよう。
それがふたりでたどり着いた、答えだ。
赤信号で停車した天現寺の交差点で、窓から桜吹雪が車内に舞い込む。
これからどんな毎日が待っているのか、私にはさっぱりわからなかった。
もしかしたら他の男性と食事に行くのかもしれないし、行かないのかもしれない。
歌織に面と向かって「私に構うな」と言いに行くかもしれないし、行かないのかもしれない。
週末には亮太郎に会いに行くし、いつか、行かなくなるのかもしれない。
それはきっと、亮太郎もそうだろう。
歌織に心揺さぶられる日が来るかもしれない。
スニーカーが好きな女の子と、恋に落ちるかもしれない。
私と週末会ううちに、ひとりでいることの心地よさを知るのかもしれない。
今の私たちには、なにもわからない。1LDKに住んでいた昨日までと、全く同じように。
だけど、だからこそ。
遠くにいても、誰よりも近い存在であることを確かめるのだ。
― 離れても会いたい。それが確認できたら、私たちきっともう一度…。
信号は青に変わり、亮太郎との距離はまた開き始めた。
けれど、髪についた桜の花びらを摘む私の右手薬指には───キラキラときらめくふたりの希望が星のように輝いている。
Fin.
▶前回:待ち望んでいたプロポーズをされた30歳女。しかし、その瞬間感じた違和感とは
▶1話目はこちら:恵比寿で彼と同棲を始めた29歳女。結婚へのカウントダウンと意気込んでいたら