ある人生の中の通過点を誰かと確かに助け合った記憶は、過ぎ去ったとしても、決して悲しいことはない
ふたりの人間が交わり、そして何も起こらなかった(けれど、確実になにかが起こった)この作品だが、この「人は助け合うことができる」というテーマは、タイトルにもなっている『夜明け』や、主人公たちが試みる移動プラネタリウムのナレーションで語られる、天体や宇宙の話にもつながっているのかもしれない。
映画の中でふたりが一生懸命考えたプラネタリウムのナレーションを聞いて、夜明け前の暗闇の絶望感と、その後の夜明けの希望を知っているからこそ、人の弱さに敏感になれるんだろうなと思った。また、宇宙の果てしない時間軸の中では、すべてのことは、通過点であり、人生で誰かと誰かが関わった時間も単なる通過点に過ぎないけれど、ある人生の中の通過点を誰かと確かに助け合った記憶は、過ぎ去ったとしても、決して悲しいことはないと受け取った。
この考えは、実は映画の中のほかの場面でも貫かれているように思う。栗田科学の副社長の住川(久保田磨希)は、息子のダンと同級生が学校の課外授業で行ったビデオ取材の中で、これからやりたいこととして、誰でも仕事ができるような仕組みを作りたいと言っていた。
このセリフを聞いて、誰が仕事をすることになっても、同じようにできるように仕組みを作るということは、その仕事をしている人が、いつ会社を去ってもいいと言っているような気がして、少し寂しい気がするかもしれない。
でも、私はそれでいいのだと思う。会社も誰かの人生の通過点の一つに過ぎず、その場所にいる間は、雇用するということで人を助けることもできるし、そこを去らないといけなくなったら、去ってもいい。一見ドライに見えかねないが、会社のために人をしばりつけるよりも、むしろ温かいことではないか。
栗田科学は、お菓子を分け合ったり、会社終わりにご飯に誘う社員がいたりと、家族的で昔風な雰囲気に見えるが、よくよく見ていると、ガチガチの「家族」のような強固なコミュニティを作りたいというのでもなさそうだ。だからこそ、去っていく人に対して、その先の人生を祝福することができるのだ。
人と人が助け合うということは、一度関わり始めたら一生かけて関わらないといけないとか、ガチガチに凝り固まった強固なものだけが正解のように思われることが多い。そんな思い込みがあるからこそ、このような「ささやかでゆるやかな、一時的な助け合い」を懐疑的に思ったり、嘘くさいと思う人がいるのではないか。
藤沢さんと山添くんの関係性も、一時期を共にした瞬間、確かに二人は助け合った、というその事実だけが残った。それは一瞬のことかもしれないが、ささやかでありながら濃密で幸せなものに見えた。
人生のある通過点で同じ時を過ごし、肩を貸し合い、そしてそれぞれの道に戻っていく。この映画を見てしばらくそんなことを考えたら、まったく作風は似ても似つかないのに、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』のフュリオサとマックスを思い出してしまった。彼らもまた、傷ついていた同士であった。
text_Michiyo Nishimori illustration_Natsuki Kurachi edit_Kei Kawaura
配信: Hanako.tokyo