30歳を目前に、お笑いへ
ひとつ芸の肥やしのつもりだった社交ダンス。しかし、猪突猛進タイプだというキンタロー。さんは社交ダンスにのめりこんでいきます。
「私はこのまま社交ダンスで死んでいくんだわ、というぐらいハマっていたんですけど、とにかく全然うまくいかなくて。一番のきっかけは首のヘルニアでした。普通にしていただ、このままやめられないぐらい沼っていたんですけど、そのころ、つきあっていた人と結婚したかったんですよ。でも相手は公務員で全然つれなくて。
きっと私が社交ダンスの講師という不安定な職だから結婚しようって言いにくいんだわと思った、というのもありました。やめたらすぐに振りやがったんですけどね! あいつはダンス講師の女が恋人だというステータスだけで付き合っていたんですよ!(笑)」
無職になって、恋人に振られ、打ちひしがれて……そんなときに友人に声をかけられて、事務の仕事に就きます。そのときが「人生で一番規則正しい生活でした。健康になって、頭も人生で一番まともになった」のだそう。そして改めて自問自答したときに出た答えはお笑いがやりたいということでした。
「いろんなものが削がれていって、フッと座禅を組むような気分になったんですけど、私はチャレンジしないで死んでいくんですか、という自問自答がありました。
当時の私は、友人たちの結婚式の余興に全力をかけていたんですけど、ある日の余興のリハーサルで、私のお笑いを買ってくれていた先輩に『お前、まだこんなところにいたのか』って言われてハッとしたんです。それは『お前なんかとっくに上京してお笑いにチャレンジしていると思ってたよ』という言葉だと思ったので、即座にお笑いのオーディションを探して受けました」
そのときに松竹芸能のオーディションで特待生として合格。
「私の才能を買ってくれたんだわ、と思ったから全てを捨てて上京しました」
早く世に出られてよかった
そんなキンタロー。さんが目指していたのは、ギャガ―。
「FUJIWARAの原西さんみたいな瞬発力のある、もう身ひとつで、すぐに出てすぐに笑いがとれる、というのに憧れますね」
ブレイクも早く、あっという間に多くの人が知る芸人へとステップアップしていきます。でも、それが達成できたのは「自分は後がなかったから」だと言います。
「私が養成所に入ったとき、すでに29歳だったんです。周りは年下の子たちが多くてサークルのような雰囲気でした。楽しんでいらっしゃいますね、スクールライフを! という中で(笑)、私はいろんなものを捨ててきてて後がないし、この子たちより寿命が短いって思ったから、もうなりふり構わずチャンスは全部トライしていこう、と。事務所の斡旋のオーディションだとか、来てください、と言われたものは全部受けていました。
自分なりの努力と課した重荷と引き換えにいろいろ学びがありました。純粋にここにいていいんだなって思って。早く世に出れてよかったなって」
でも、すぐにブレイクしたからこその苦労もありました。
「とある先輩芸人に電話で『その出方は一発だよ。気をつけなはれや』って言われて。そんなこと、電話でわざわざ言わなくてもいいのに、と思ったりもしましたね。私を心配してのアドバイスだったと思うのですが、私はもともと自尊心が低いので、そのアドバイスは私のモチベーション的に逆効果だったんです。そういうせめぎ合いの中でとにかくもがいてもがいて今に至ります。一番なりたいことになれたので、いかにここで泳いでいられるか、ですよね」
配信: 女子SPA!