「無力感」を前提にしつつも意志・敬愛・鎮魂も示している
この2度目の修正における公式からの声明は出ていないが、筆者個人としては「伝えたいことは、誰かを傷つける可能性があったとしても、はっきりと打ち出す」という作り手の覚悟を感じた。そうでなければ、京都アニメーション放火殺人事件を連想させる「パクられた」という文言は復活し得ないと思うからだ。
さらなる根拠が、原作者の藤本タツキが抱えていた「無力感」だ。短編集「17-21」のあとがきで、藤本タツキは『ルックバック』を描いた動機について、東日本大震災直後に被災地のボランティアに行った時から無力感をずっと持ち続けており、「何度か悲しい事件がある度に、自分のやっていること(漫画を描くこと)が何の役にも立たない感覚が大きくなっていった」「そろそろこの気持ちを吐き出してしまいたかった」と語っているのだ。
明言はされていないが、その「悲しい事件」の中に、おそらくは京都アニメーション放火殺人事件もあったのだろう。そして、『ルックバック』の物語は残された人がそれでも創作を続けていくという「意志」、またはクリエイターへの「敬愛」を強く感じさせるラストへと帰着する。決していたずらに実際の事件を想起させる作劇をしたわけではなく、現実で理不尽に命を落とした人への「鎮魂」の意図も込められているようにも思えたのだ。
そのアプローチを救いだと思う人がいる一方で、反対に傷ついた人もいるのも事実だ。それは本作のみならず、実際に起こった事件や悲劇を作品に昇華させるクリエイターが苦悩する事柄だろう。
たとえば、2022年12月に放送されたNHKの『クローズアップ現代』のアニメ映画『すずめの戸締まり』の特集で、新海誠監督は東日本大震災を扱った同作について「創作には暴力性がある」「誰かを傷つけないよう、慎重に傷つく部分を避けて描かれた物語は、誰の心にも触れない」と重い言葉を告げていたこともあった。
「見下した」のはかつての主人公の姿でもある
さらに、1度目の修正時に入れられ、漫画の単行本およびアニメ映画版でも残された殺人犯の「見下しやがって」には重要な意味がある。
その理由のひとつが、かつての主人公の藤野もまた「見下して」いたからだ。彼女は小学生のときに「ちゃんとした絵を描くのってシロウトには難しいですよ? 学校にもこれない軟弱者に漫画が描けますかねえ?」とイヤな言い方をしていたのだが、その不登校の少女・京本の絵の上手さにショックを受け、その悔しさをバネに漫画に向き合い続け、さらにはその京本が自身の漫画のファンであったと知ると雨の中でスキップするほど嬉しく思い、ついには漫画家という職業についた。
一時は他者を見下したこともあるものの、自身の努力と「ファンがいたこと」で創作を続けてきた藤野。そうすることができず、見下された(さらにパクられたと思いこんだ)ことが凶行の理由になっていた殺人犯。両者は「合わせ鏡」のような存在なのだ。
このセリフがあったことで、創作は自身の人生に直結する「希望」にもなるが、誰かにとっては自分も他者も傷つける「呪い」にも転ずることもあるという、極めてシビアかつ残酷な問題提起がされているといってもいいだろう。
配信: 女子SPA!