同潤会アパートの多くは東側の下町に集中
都内に建てられた同潤会アパートの分布図を見ると、その多くは東側の下町に集中している。木造住宅が密集していたこの地区は震災の甚大な被害を受けていたからだ。
下町にあった同潤会アパートのなかには、東京大空襲で内部が全焼した住棟も少なくなかった。清砂通アパートでも空襲によって多くの住人が犠牲になったという。
清砂通アパート1号館には優雅なラインを描いた螺旋階段があったが、そこの手すりに付いているはずの笠木がなかった。笠木とは手すりなどの上部にかぶさる仕上げ材だが、木製だったので燃えてしまったのである。
〈清砂通(きよすなどおり)アパート〉
Architect Data
・所在地:東京都江東区白河、三好
・設計:同潤会建設部建設課
・施工:大林組
・竣工年:昭和2年~昭和4年(1927‐1929)
・解体年:平成14年(2002)
女性専用の「大塚女子アパート」など、新しいライフスタイルを提案した
その下町地区の大規模な計画として完成したのが清砂通アパートだった。2地区に16棟の住棟、663戸という規模は同潤会アパートで最大だった。
一方、街路樹に沿って住棟が並び、表参道の景観構成に寄与していた青山アパートは、主に中流階級のサラリーマンや大学教授、役人などが入居した高級アパートだった。
大塚女子アパートは女性専用で、当時増え始めた働く女性が安心して都市生活を営むことを目的に建てられた。昭和史を語る貴重な歴史遺産である同潤会アパートメントだったが、いまは1棟も残っていない。
〈大塚女子アパート〉
Architect Data
・所在地:東京都文京区大塚
・設計:同潤会建設部建設課
・施工:大阪橋本組
・竣工年:昭和5年(1930)
・解体年:平成15年(2003)
アパートというひとつの建築の中に多くの人々が集って住むという、これまでになかったコミュニティを提供した同潤会。その新しいライフスタイルの考え方は市民に受け入れられて、都会的なアパート住まいは庶民の憧れの的となった。その夢や理想は、戦後の公団住宅や民間の集合住宅に引き継がれている。
<文/伊藤隆之、後藤聡(エディターズ・キャンプ) 写真/伊藤隆之 構成/女子SPA!編集部>
【伊藤隆之】
1964年、埼玉県生まれ。早稲田大学芸術学校空間映像科卒業。舞台美術を手がけるかたわら、日本の近代建築に興味をもち写真を学び、1989年から近代建築の撮影を始める。これまでに撮影した近代建築は2500棟を超え、造詣も深い。これまで、『日本近代建築大全「東日本編」』『同「西日本編」』(ともに監修・米山 勇 刊・講談社)、『時代の地図で巡る東京建築マップ』(著・米山 勇 刊・エクスナレッジ)、『死ぬまでに見たい洋館の最高傑作』(監修・内田青蔵 刊・エクスナレッジ)などに写真を提供してきた。著書には『明治・大正・昭和 西洋館&異人館』(刊・グラフィック社)、『看板建築・モダンビル・レトロアパート』(刊・グラフィック社)、『日本が世界に誇る 名作モダン建築」(刊・エムディーエムコーポレーション)、『盛美園の世界』(刊・名勝盛美園)がある
配信: 女子SPA!
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