2016年、42歳のクリスマスイブに突如乳がん宣告。(ステージⅡB)。晴天の霹靂だった「がん宣告」から約1年間、泣いたり笑ったり怒涛の日々を駆け抜けた、私のがん治療ドキュメンタリーを連載でお届けしています。
※治療方針や、医師や看護師の発言は筆者の病状等を踏まえてのものであり、すべての患者さんに当てはまるものではありません。また、薬の副作用には個人差があります。
放射線治療で「自分の身体がモノになったように感じた…」
年末にがんが見つかり、年明けから病院探し、手術、抗がん剤治療を受け終わったときにはすでに秋になっていました。
意気込んで始めた治療ですが、途中に夫婦のいざこざや息子のことなどの悩みが生じ、どんどん精神状態が悪化していったわたし。
抗がん剤は週に一度、横浜から都内の病院まで1時間半ほどかけて通っていましたが、放射線治療は1か月間、平日毎日照射に通わなければならないため近所のがん専門病院で治療を受けることにしました。そちらの病院は電車で5分、最寄駅からは徒歩10分程度の場所。
照射開始前には、照射部分をマジックペンでがっつり描かれ、1か月間は消さないように注意されます。何か身体に書く用のペンを使うのかと思ったら、ごく普通の油性ペンで思いっきり……。
照射するエリアの中心にはの十字マークもしっかり書かれ、これが消えると中心が分からなくなるので消さないようにねと念を押されました。これは1か月、身体をごしごし洗えないなと悟るわたし。秋だったので汗をかかない時期で助かりました。
毎日通うのは大変ですが、照射時間はものの5分。毎朝同じ時間に通って、照射して、帰るというルーティーンです。
放射線治療は、低量の放射線を何度も当てるので、回数を重ねるごと日焼けのような赤みが出てきて、徐々に黒くなっていきます。お風呂に入るたびに自分の身体がモノになったように感じ、気分が沈みました。
私生活では小4息子の進路に悩み
放射線治療を受けている期間も、相変わらず私生活の悩みは消えず、小4の息子の進路についてずっと考えていました。
口を開けば「塾どうしよう」と言い、息子には「もう塾の話をしないで!」と怒られ、夫にも相談に乗ってもらえず、誰にも話す人がいなくてひとりふさぎ込んでいました。
いてもたってもいられず、いろんな塾に問い合わせ、嫌がる息子を体験に連れて行きますが、どこもピンときません。なぜか中学受験は「家で親が勉強を手伝う」が前提。勉強アレルギーの息子が中学受験なんて絶望的なのか、でもそれなら勉強しないまま中学生を過ごした後の高校受験はもっと絶望的だと悲観的になり、焦りばかりが募ります。
この時期はメンタルが不調で誰にも会いたくなくなり、仕事もせずに毎朝放射線治療を受けに病院に行くだけの生活だったので、余計にあれこれ考えてしまったのだと思います。かといって気晴らしに何かしたいという気力も出ず、久しぶりの友人からのLINEにも返信できませんでした。悩みをぶちまけることも、平常心を装って返信する元気もありませんでした。
人って精神的に苦しくなると、楽しいことすらしたくなくなるのだなと痛感しました。夫や母もときどき「少し気晴らしに出かけてきたら?」などと声をかけてくれるのですが、頭の中が悩みと不安でいっぱいで、そんな楽しいことが入る余地もないのです。
もともとあちこち珍しいものを見て回ることや美味しいものを食べるのが好きなわたしが、買い物やご飯を味わう余裕もなくなったのは後にも先にもこの時だけです。この欲深いわたしがこんな状態になったのは自分でもショックでした。
配信: 女子SPA!