14歳少女が50歳男につけ込まれ性的関係を…“衝撃の実話”が示す加害者のおぞましい手口

14歳少女が50歳男につけ込まれ性的関係を…“衝撃の実話”が示す加害者のおぞましい手口

「絶対的な価値観」を利用する恐ろしさ


 そのほかの場面でも、マツネフからの「いかにも作家らしい文学的な表現の口説き文句」のモノローグが挿入されており、ヴァネッサがその言葉に支配されてしまう感覚がわかるようになっている。

「愛」を語るような言葉の本質はグルーミングそのものなので、観客としては嫌悪感でいっぱいになる。ヴァネッサも潜在的にはそう感じてはいるようにも見えるが、それでも搾取をされ続ける様は、耳を塞ぎ目を逸らしたくなるほどに苦しかった。

 ヴァネッサは文学を愛するどころか、「偉大な愛なんて、本の中でしか知らない」とまで口にする危うさがあった。それを極端に思う人もいるだろうが、精神が不安定な思春期に「絶対的な価値観」を望むのは普遍的なことでもあるだろう。マツネフがまさにその心理につけ込んで」ヴァネッサの“同意”を促して、その後も自由意志を奪っていく様が恐ろしく醜悪に思える。

 現実でグルーミングや性加害を行う者も、子どもが好きなもの、ある種の無邪気さを“利用”し、時には他の価値観との断絶を計っているのかもしれないと、より危機感を覚えるだろう。それも本作の大きな意義だ。

性加害者に“居場所”を与え、社会が“正常化”していた


 劇中の多くで描かれるのはおよそ35年前の出来事であり、当時の子どもに性加害を繰り返していたことが明らかなはずのマツネフに社会が“居場所”を与え、小児性愛を“正常化”してしまったことも大きな問題だとも痛感させられる。

 何しろマツネフは、自身の小児性愛嗜好を隠すことなくスキャンダラスな文学作品に仕立て上げており、あろうことか「既存の道徳や倫理への反逆者」として世間的には称賛された人物だったのだ。

 劇中ではヴァネッサの母親がマツネフとの関係を知って「それは愛なんかじゃない。あいつは小児性愛者よ。有名な話だわ」と言い、ヴァネッサが「自分の娘をロリコンと並んで座らせたの!?」と涙ながらに激昂する場面がある。自身の娘を守らなければならない立場の母親でさえも、(さすがに性的関係は問題視するが)マツネフを「近づけたことは許容していた」事実も、また恐ろしい。

 その“正常化”の恐ろしさは、何十年も続けられ、噂もされていたがずっと罪には問われなかった、ジャニー喜多川による性加害の問題などを鑑みても、まったく他人事ではないだろう。

関連記事: