『虎に翼』6つの画期的要素とは? 「極上のリーガルエンターテインメント」が意表を突いたワケ

③演劇的要素&タイムトラベル感が画期的

 吉田氏は、3人以上の会話を書くのがお得意ではないようで、多数のキャストが一堂に会するシーンでは「1人もしくは2人と、その他大勢」になりがちである。おそらく話者以外の人物について、普段からの人物造形の掘り下げも含め、台本に何も書かれていないのだろう、「その他大勢」は手持ち無沙汰に静止して過ごすしかない。

 中でも傑作だったのが、星航一(岡田将生)が「お気に入りの店」として初めて寅子を喫茶ライトハウスに連れて行ったシーン。驚異的なご都合……あ、いや、“驚くべき偶然”で、寅子は桜川涼子(桜井ユキ)と玉(羽瀬川なぎ)に再会し、3人は喜び合う。通常のドラマならそれを目にした航一が驚いて「なるほど、知り合いだったんですね」とかなんとか言うところだ。ところが、3人がキャッキャやってる間、航一がスイッチをオフしたように完全に「静止画」になっているのに笑ってしまった。

 こうした、「現在スポットが当たっている人物」以外への照明が暗転するような、まるで演劇のごとき描写が新しい。そしてこれは、ドラマ全体にも言えることで、作者の「強い関心事」以外のことは、とことんアバウトに描かれるのが本作の大きな特徴だ。

 また後に、ライトハウスで航一が「総力戦研究所」に携わったことで抱えていた自責の念を吐露するシーンでは、岡田将生の口から発せられる、スタッフが用意した資料をそのままコピペしたかのような、「生きた人間の言葉として練られていない」長台詞が見事だった。その間、要所要所で寅子がまるで『まんがはじめて物語』(TBS系)のモグタンのように「そうりょくせんけんきゅうじょ?」「机上演習?」とオウム返しをするのも、何とも可笑しみにあふれていた。

 『まんがはじめて物語』は昭和50年代に放送されていた子供向け学習番組。モグタンとお姉さんが色んな“もの”、“こと”の「はじめて」を訪ねに行くタイムトラベルものなのだが、なるほど、『虎に翼』は脚本家と登場人物と番組のファンが「女性弁護士のはじめて」を訪ねに行くタイムトラベルもの(※随所に歴史改竄……もとい、“アレンジ”あり)の朝ドラなのか、と合点がいった。

 本作は、昭和6(1931)年から物語がはじまり、第19週放送時点で昭和28(1953)年。しかし出てくる人物の全てが、平成・令和の価値観、言葉遣い、思考、行動原理で動く。そんなところも「タイムトラベル感」が強い。

 「当時の人たちの『思い』を深く想像し、掘り下げ、それを光源にして現代の問題を照射する」というのが「時代もの」の映像作品の真髄だと思うのだが、『虎に翼』の作り手は「過去の人の思い? 知るかよ」というマインドを貫徹している。

 その精神からなる、「昭和感」をことごとく排除した作劇に違和感を唱える視聴者を、吉田氏はお諌めになる。転載が禁じられているので、文章の引用はできないが、BlueskyとXでの発言を要約すれば、「時代描写に文句があるなら昭和の作品だけ見とけよ」ということらしい。こうした脚本家の強固な姿勢も含めて、本作はまことに奇警である。

④「ピーター・パン・シンドローム」を根調とした作劇が画期的

 モデルの三淵嘉子さんと設定が同じであれば、第19週放送時点で、寅子は39歳になる年。大正生まれの四十路前にしてはずいぶんと子どもっぽい。というか、ドラマが始まってからほぼ成長していないようにすら見受ける。「人間、歳を重ねてもそうそう成長するものではないし、本質は変わらない」という作劇意図なのだろう。さらに言えば、「大人にならなくていい。子どものままでいい」という「ピーター・パン・シンドローム」に根差したメッセージを発しているようにも思える。

 転載が禁じられているので文章は引用できないが、要約すれば「『大人になれ』『丸くなれ』という社会的圧力により、言いたいことも言えない人たちを守りたい」という主旨の発言を、吉田氏は常々SNSでしておられる。

 寅子が、恩師であり、かつて父・直言(岡部たかし)を冤罪から救ってくれた恩人でもある穂高(小林薫)の退任記念祝賀会で花束贈呈を拒否したエピソードが印象深い。このシーンを書くにあたり、吉田氏はプロレスの「花束投げつけ」でも参考にしたのだろうか。あるいは「その人の大切な日をぶち壊しにする」という意味では、大島渚夫妻の結婚30周年パーティーで大島をマイクでボコ殴りにした野坂昭如へのオマージュだろうか。

 寅子は、「女を、私をこんなことにした社会への怒り」という全体的な話を、なぜか穂高個人にぶちまけ、「私は謝りませんよ!」と怒鳴る。あの名(迷)シーンも、「おじさんの言動にものわかりよくならなくていい」という吉田氏の“信念”の表れなのだろう。

 本作ではこうした、作者の「おじさんに対する憎悪」を寅子に代弁させるような作劇が随所に見られる。ところが、「滝行」の手伝いを命じて半裸を見せつけたり、酒席に連れ回したりと、今で言えばセクハラやアルハラに相当する行為を続けていた多岐川(滝藤賢一)には何も言わない寅子。あちこちに噛みつくのに、裁量権のある「お助けおじさん」にだけは歯向かわない。そこだけは「大人」になるというのが、妙に“リアル”だ。

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