⑤「ふんわりイマジネーション」で書く脚本が画期的
何についても「ふんわりイマジネーション」で「こんなもんだろ」的に書き上げてしまう大胆さが光る本作。特に、仕事描写の“ファジーさ”には目を見張るものがある。
まずもって「極上のリーガルエンターテインメント」と謳いながら、法廷劇の見せ場がほとんどない。前半の「弁護士編」で寅子が法廷に立ったのはたったの一度で、OPで纏っているあの法服を着て、裁判官に資料を渡すだけで終了した。現在までに登場した「リーガルエンターテインメント」らしいシーンといえば、寅子が学生時代に見学した、シソンヌ・じろうと長谷川が演じる弁護士が受け持った「着物裁判」ぐらいだろう。実に意表をつく作劇だ。
続く「判事補編」でも、寅子が仕事でどんな成果を上げたのかは具体的に伝わってこなかった。それでも周囲の人間に「佐田は優秀だ」と言わせれば優秀だということになる“力技”の作劇が白眉だ。このドラマは常に「台詞でそう言えばそういうことになる」という「吉田神の律法」に依拠している。つべこべ言わずに飲み込むんだよ。
寅子が裁判官になった「新潟編」から、ようやく仕事描写が少し増えてきたものの、相変わらず「問題の解決」が法律にからめたものではなく、寅子の仕事や権限の外にある「ヒロインの“おせっかい”」や「ヒロインが周囲で起こること全てを掌握して“許可”を与える」というルールのもと“解決”する。
本作は、あらゆる問題のソリューションが具体性に乏しく、わりと何でも暴力(言葉や態度の暴力、威圧、支配も含む)で解決することが多い。さらに、「起承転結の『起』がAの問題で始まったのに、Dの問題で結ばれる」という「問題のすり替え」がカジュアルに行われる。「目的の着地点からあさっての方角の砂浜にパラシュートで『ファサッ』と着陸して足をグネる」というような“落着”のしかたが実に多いのだ。
⑥脚本家独自の言語感覚が画期的
前述の「昭和初期の人間が絶対に使わない、平成・令和語を何のためらいもなくブッ込んでくる」作劇からもわかるが、作者の言語感覚がとても“ふんわり”している。「その時代の、その立場の、その人だからこそ発せられる『言葉』を吟味して書く」という作業を放棄しているように思えてならない。
戦後の混乱の中、壮絶な体験を重ねながら命からがら焼け跡で暮らした戦災孤児たちを「ねじ曲がった子どもたちを真人間に立ち返らせて」という雑な言葉で括る。梅子(平岩紙)の次男で、戦地で心身共に傷を負って帰還した徹次(堀家一希)を「ひねくれた」の一言で一蹴する。クラスになじめない子のことを、娘の優未(竹澤咲子)が「クラスで嫌われてる子」という身も蓋もない呼び方をしても、寅子がたしなめない。
「雨垂れ石を穿つ」の意味を曲解していたり、「虎視眈々」の用法を誤っていたりと、「もの書き」であるはずの作者が、言葉を非常に軽く扱っている。
その一方で「出涸らし」や「溝を埋める」など、ご自身お気に入りの決め台詞は、DJの「ループ」よろしく何度も何度もくり返し“再生”するのが趣深い。
吉田氏はSNSで、本作に対して懐疑的あるいは批判的な視聴者を十把一絡げにして《穿った見方やムキになる人》と称している。さらに、世の中(≒おじさん)に対しては《クソすぎる》《ボケが》《輩(やから)》などの言葉を用いて容赦なくなじる。
こうした作者の言語感覚が、「私を怒らせた“愚者”に対しては、投げる言葉を選ばない」という寅子の人物造形に大きく反映されていることがわかる。涼子の台詞を借りて言えば、「お言葉のチョイスに難がおありね」ということではなかろうか。
また吉田氏はSNSで「見えなくさせる」「なかったことにして無視する」という意味で「透明化」という言葉をしきりに使っておられるが、「透明化」の本来の意味は「行政や企業において壁で覆われていた部分を取り払って秘匿性をなくし、可視化する」というもの。つまり「隠していたものを見えるようにする」という意味だ。
「見えなくさせる」「なかったことにする」という意味で「透明」を使った台詞といえば、『冷たい熱帯魚』で、でんでんが演じる連続殺人および死体損壊・遺棄の犯人による「ボデーを透明にするんだよ、ボデーを」が有名だが、吉田氏はこの映画の熱烈なファンなのだろうか。
ともあれ、番組も残すところあと7週。このあとも、「演劇的表現」による「その他大勢」の「スイッチオフ」や、全ては寅子を崇めるため、都合のためにコロコロ人格が変わる登場人物たちの「日替わり芝居」など、“見どころ”たっぷりの『虎に翼』の終盤を見届けよう。
配信: サイゾーウーマン
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