オーディション番組『ASAYAN』(テレビ東京系)で合格し、1999年につんく♂プロデュースでデビューを果たした「太陽とシスコムーン」。
民謡歌手・小湊美和、体操選手として1988年のソウル五輪に出場した経験を持つ信田美帆、中国で歌手として活躍していたRuRu、そしてアイドルグループ・大阪パフォーマンスドール(以下OPD)のメンバーだった稲葉貴子。異色の経歴を持つ4人によるグループで、一年半という短い活動期間ながら、今でも伝説的に語り継がれています。
そんな太陽とシスコムーン(以下、太シス)は今年でデビュー25周年をむかえ、芸能界を引退したRuRuを除く3人で全国ツアーを開催。4月にはteam445とコラボした「ディスコ・クレオパトラ feat. 稲葉貴子・小湊美和・信田美帆 a.k.a. CISCO3」をリリース。そして6月には過去楽曲がサブスクリプションサービスで配信され、ネット上はお祭り騒ぎとなっていました。
「女子SPA!」では、稲葉貴子さん(50歳)にインタビュー。太シス全盛期の思い出や知られざる会社員時代の話、さらに現在の活動について聞かせてもらいました。
「ASAYAN」は最後のチャンス。引退も考えていた
――サブスクリプションサービスでの配信解禁が話題になりました。反響はどうですか?
稲葉貴子さん(以下、稲葉)「SNSなどでこわごわ見ていました。でもほとんどの方が喜んでくれて素直に嬉しく思いましたね。昔の熱を取り戻してくれた人もたくさんいたようです。
最近だと、ハロプロの後輩たちが曲をカバーをしてくれているせいか、私たちを知らない世代の人も見に来てくれるようになったんですよ。20代の子に『可愛い』って言われたりするのは、かなり新鮮です(笑)」
――熱狂的なファンが多かったですよね。稲葉さんは「太シス」以前にはOPDとして活動しており、メンバーの中でも特にキャリアのあるアーティストだったと記憶しています。どういった経緯でオーディション参加を決めたのでしょうか?
稲葉「あの頃は大阪で活動していたけれど、そんなにお仕事もなかった時期だったんです。アルバイトももちろんしていましたし、実は芸能活動を辞めようかとすら思っていました。
そのタイミングでASAYANの企画を知って、これが最後のチャンスかな、と。これでダメだったら引退の道を選ぼうと考えていたんです」
――いち芸能人として、それなりに切羽詰まった状態ではあったのでしょうか。
稲葉「人生そのものが終わってしまうわけではないので(笑)、崖っぷちとまでは思っていませんでした。芸能の世界ではないところで、普通に暮らしていくだけの話です。
この世界って自分の頑張りも必要だけど、それだけではどうしようもないことってあるんです。一つのお仕事をいただいたら、またそのご縁で次のお話が……の繰り返し。オーディションがダメだったらそういうことだし、合格したらまだ続けていいよってことだと思っていました」
「可愛いアイドル」の枠にハマれず、ひどい批判も
――オーディションに受かり、太シスとして新たに活動を開始。ASAYANでも大々的に取り上げられていた全盛期はどのような心境だったのでしょう。
稲葉「なんかもう……記憶がないところがけっこうあるんですよね。毎日目の前にあることを一生懸命やるしかなかったから。OPDでも歌やダンス、ライブもやっていましたが、太シスの活動はそれだけではなく、初めて経験することも多かったんです。ASAYANは台本がなくて、当日その場で内容を知らされますし(笑)。
それに今では考えられないほどの目まぐるしいスケジューリングでした。仕事が終わった後のメンバーとの挨拶も『また明日!』ではなく『また後で!』くらいの感覚だったくらい」
――寝る時間もないレベルだったのですね。
稲葉「そこはやっていて少し辛かった部分かもしれません。でも、遊ぶ時間が欲しいとかはなかったですよ。活動自体は楽しいし、好きなことができている実感がありました。私は特にライブが一番好きでしたね。お客さんの直接の反応が返ってくることがとても楽しかったし、これは今でも変わっていません。
逆にテレビの収録のお仕事は苦手でした。写真撮影も同様ですが、私はカメラ越しの見えない誰かに向けて笑ったり、表情を作ったりすることは得意ではなかったみたいです」
――他にも今だから言えるつらかったことはありますか?
稲葉「楽曲も見せ方も“可愛らしいアイドル”とは異なっていたためか、好評価をいただく反面、ひどい言葉で批判されることもすごくありました。自分たちは“アイドル”という意識じゃなかったけれど、どうしてもその枠にはめられてしまって。当時は私たちのようなグループを表現する言葉が一般的ではなかったように思います」
配信: 女子SPA!