「原爆裁判」とは? 資料は捨てられている?
「原爆裁判」とは昭和30年代に本当にあった国賠訴訟(こくばいそしょう)――つまり日本という国家を訴え、賠償を請求した民事訴訟のことです。
第二次世界大戦に参戦した結果、敗戦国となってしまった日本は、昭和26年(1951年)、「サンフランシスコ平和条約」に調印し、アメリカなど戦勝国から受けた戦争被害に対する賠償請求を放棄しているのです。
これに対して、起こされたのが「原爆裁判」でした。
「原爆裁判」という物々しい名称から想像されるのは異なり、原告は広島と長崎の被爆者5人で、訴えは昭和30年(1955)年に大阪地方裁判所と東京地方裁判所の2つで起こされました。、後に三淵さんが働いていた東京地方裁判所で総合的に審理されていくことになったのですが、驚いたことに「原爆裁判」の資料裁判の判決文を除き、すべてが捨てられてしまっているのだそうです。
本来ならば各裁判所で保存するべき民事訴訟の記録が大量廃棄放棄されていた中で、「原爆裁判」の資料も廃棄されてしまったのだとか……。現在では、埼玉県の弁護士・大久保賢一さんが「原爆裁判」の記録として保存している資料だけが、唯一の資料といえるのだそうです。
さらに「原爆裁判」に携わった寅子のモデルの三淵嘉子さん含む3人の裁判官が、職業上の秘匿義務もあり、ほとんど何も語っていないのです。そうしたという背景もあって、「原爆投下は国際法違反である」と認めたことで、世界の司法・政治に大きな影響を与えた「原爆裁判」が、正確にはどのようなものだったかを知ることはかなり難しいのです。ドラマでどのように描かれるかは、脚本家の吉田恵里香先生の想像力次第なのかもしれません。
判決文には「政治の貧困を嘆く」と政治家に楯突く言葉も
下田隆一さんという原告の訴状を要約すると、「5人の子供を原爆で失い、自身と妻も原爆によって深刻な後遺症が残っているので、仕事を再開することさえできない。原爆投下は国際法違反で、国からの賠償を求める」というものでした。
訴えが起こされてから裁判開始までが4年、それから結審まで4年、合計8年もかかった「原爆裁判」の法廷でくだされた判決は、原爆投下は国際法違反ではあるが、原爆被害者への国の賠償義務はないと要約し内容だったのです。
しかし、原爆被害者たちからの「(賠償)請求を棄却する」、つまり国による賠償は現時点の法律の内容では行えないという判決内容ではあるのですが、古関敏正裁判長が読み上げた判決文には、日本という国が被害者たちに「十分な救済策を取るべきこと」なのに、それを可能とする法律がまだ国会で作られていない「政治の貧困を嘆く」という言葉が明確に含まれていたのですね。
「原爆裁判」の判決文は、国として、アメリカなどには賠償請求を行わないという立場を決めた日本の政治家に楯突くような内容であり、アメリカなど戦勝国を刺激しうる内容でもあったので、裁判長の古関敏正さんは「20数年間の判事生活を通じて、今度が一番苦労した」と、新聞紙の記者たちの囲み取材でコメントしたそうです。正直な言葉ですよね。
結審の法廷には、原告もほとんど来ておらず、傍聴席には報道各社の記者が何人かいるだけという静かさだったのですが、「原爆裁判」判決文が新聞などで大きく取り上げられるにつけ、世論と政治家が動き、「原爆裁判」結審から5年後の昭和43年(1968年)には「原子爆弾被爆者に対する特別措置法」が定められたのでした。こうして段階的にせよ、被爆者への補償が始まっていったのです。
配信: サイゾーウーマン