美智子さまと女官にかなりの軋轢があったワケ
堀江 たとえば、昭和天皇は生涯で2回、女官制度を大変革なさったのですが、それ以前の時代、いわゆる上級女官たちは、基本的に男爵家、子爵家といった華族の姫君たちがなっているケースが大半だったわけです。伯爵家以上の家柄の華族、もしくは皇族の姫君たちは、女官ではなく、お妃候補だったわけですね。
実は現在の上皇后陛下こと美智子さまが皇太子妃として皇室に入られた時まで、こうした(旧)華族の姫君たちが女官としてリクルートされ、美智子さまをお支えする体制だったのですけれど、ご存じのように美智子さまは、主に戦後に躍進した実業家一族のご出身ですよね。華族出、皇族出のお妃ではありませんでした。
ですから戦後、数々の特権と身分を失い、財産税によって資産まで奪われた「斜陽族」の旧華族、旧皇族の姫君とは「水と油」で、かなり軋轢があったそうなのです。
――若き日の美智子さまの周辺には、雅子さま、そして愛子さまにとっての岡山いちさんのような親身になって支えてくださる女官はいらっしゃらなかった?
堀江 美智子さまは立派な実業家家系の御出身ですが、これまでのお妃がたのように学習院出身者ではありません。そういう「旧勢力」から見れば、いわゆる「平民」にすぎないんですね。そういう「新勢力」である美智子さまを警戒した学習院大女学部出身者を中心とした同窓会組織「常磐会」のトップ……たとえば松平信子さんや、梨本伊都子さんといった「旧勢力」が人選をして、それを良子皇后が容認する形で、牧野純子(まきの・すみこ)さんという旧華族の女性が選ばれていたとされています。
戦前は「美しすぎる宮妃」的な立ち位置だった梨本伊都子さんは、「平民」出の美智子妃に憤慨し、「日本は終わった」という日記を書いていることが明らかになっている方ですよね。
――そんな、まるでスパイのような扱いじゃないですか。
堀江 牧野純子さんも、一説に「平民」である美智子妃の「召使い」になることに拒絶感があったそうなのですが、自分より身分が高い方々からのご命令とあらば、女官にならざるを得ませんでした。それゆえ、皇太子妃時代の美智子さまの女官たちは、現代のようにご自分を支えてくれるというより、「旧勢力」からのお目付け役として美智子さまの言動を監視し、古い意味での「理想のお妃」とするべくスパルタ教育してくる存在だったのではないか、と思われます。
美智子さまの女官、皇太子の逆鱗にふれて解雇!
――美智子さまが体調を崩された理由がよくわかります……。
堀江 実際に、牧野純子さんは美智子さまに強く当たりすぎて、明仁皇太子(現在の上皇さま)の逆鱗にふれ、解雇されています。
ちなみに秩父宮雍仁妃の勢津子さまも、元・会津藩主の松平容保の子孫で、幕末に「朝敵」認定されてしまったご先祖をお持ちの方で、お父上の恆雄さんのご身分は美智子さまと同じく「平民」でした。戦前は、平民と皇族は結婚できないので、勢津子さまは子爵だった叔父上の養女となって華族の身分を得て、「雍仁親王妃(やすひとしんのうひ)」となられました。
しかし結婚式当日から、おすべらかしの整髪料を落とすためのベンジンを女官から目に注がれ、失明しそうになったり、なかなかハードな経験をなさっていますね(『銀のボンボニエール』)。さすがに故意ではないと信じたいのですが。
――もともと華族の女官からしたら、元・朝敵、さらに平民出のなんちゃって華族のお妃さまは受け入れがたい思いもありそうですね。勢津子さまが『銀のボンボニエール』という回想録でお書きになっていたことを思い出したのですけど、勢津子さまもある寒い日に、革ジャンで公務に出られたら、あとで女官から「お妃にふさわしくない」とネチネチといじめまくられたというお話を書いてらっしゃいました。
堀江 どんなお妃さまも最初は古参の女官たちとの「格闘」を通じ、自分の立ち位置を明確にしていく必要があったのかもしれません。勢津子さまと似たような、あるいはそれ以上の激しい「お妃教育」が、女官たちの手で皇太子妃時代の美智子さまに日夜、浴びせかけられていたのだと想像できますね。
配信: サイゾーウーマン