1971年、昭和天皇と香淳皇后(C)GettyImages
「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます!
目次
女官にも身分格差! 平民出身は公家出身より格が低い
――前回は昭和時代以前の女官がたは、若くして独身で宮中にあがり、その後は明確な定年もなく、亡くなるか、老いて働けなくなるまでは皇室にご奉公しつづけるのが通例というお話をうかがいました。
堀江宏樹氏(以下、堀江) ただ、必ずしも辞められないわけではないのです。幕末、江戸城の無血開城に尽力した功績から、明治天皇にも影響力が強かった山岡鉄舟(やまおか・てっしゅう)や、当時の京都府知事・槇村正直からの強い推薦で、京都の裕福な商人の家に生まれ、高い学才を評価されて、明治天皇の后・美子皇后つきの女官となった岸田俊子さんという方がおられます。
天才少女だった岸田さんは明治12年、15歳の若さで、明治天皇の美子皇后の「文事御用掛」――つまり、文学の師範のひとりとしてお仕えすることになり、俊子さんの言葉でいうと「孟子の御進講」などで評価を得ていたそうです。しかし、2年もたたぬ間に病気を理由に女官を退官していますね。後には「公家の娘たちばかりが同僚で、旧弊な職場環境が私には合わない(要約)」などと辞職の本当の理由を語っています。
――明治時代の女官は、働く女性としてもっとも高い賃金が約束されていたと聞きましたが……。
堀江 しかし俊子さんは「お金だけを目的にして、人間は働いていてもよいのか」という思いを女官という職に抱いてしまったようで、たとえば彼女のように公家の娘などではない平民出身の女性が女官になっても、公家出身の高級女官よりも格が低い女嬬(にょじゅ)という扱いしか受けられないのですね。
現在の宮中でも、女嬬と呼ばれる職種の方々は、あくまで皇族がたの「側近」の女官がたとは異なり、「メイド」「召使い」という言葉からわれわれが連想するような仕事を担当なさっています。現代でも極端な話、床になにかこぼすと、それを雑巾で拭くのは女官の仕事ではなく、女嬬の仕事なので、女嬬が来るまで床は濡れたまま……というようなことがあるのだそうで。
現代ですらそういうわけですから、明治時代では女官の中の身分格差も深刻だったといえます。そういう部分も岸田さんには耐え難かったようですね。さらに岸田さんは、女官の定年がハッキリしていない生涯奉公であることもイヤだったようです。
配信: サイゾーウーマン