愛ゆえに、最も関係の深い夏に意地悪が発動してしまう
朱音もまた夏に対して、波のように接していく。
「娘が自分より先に死ぬこと想像してみて。わたしたちはね娘の遺影の写真を選んだの。それがどんなにつらいか、いまならわかってくれるかなって言いました」と重たいことを突きつけて「意地悪ばっかり言ってごめんなさい」と悪びれない。
津野と朱音の意地悪さをここで回収し、意地悪な人も海を、水季を愛しているのだと、いや、愛ゆえに、最も水季と海と関係の深い夏に意地悪が発動してしまうのだ、仕方ない。海と水季を愛する者たちが集まって、助け合う世界への希求が、水季の手紙で綴られる。
水季の手紙には、子どもに「選択肢をあげること」と書いてある。
第1話で、水季は、海と海(sea)に行き、「いるよ。いるから大丈夫。行きたいほうへ行きな」と海を自由に歩かせた。夏も、海の背中を見守り、好きなところに自由に行かせようとする。
そう、親のあとを着いておいで、と先を歩くのではなく、子どもの自由意志を優先するのだ。きっとこれが重要なところ。12話かけてこれを描いていたように思う。
ドラマの終は曖昧な、でも心地よい余韻として
最も自由だった水季は、夏を海と手紙で縛っているように見えるが、彼の選択の自由を一応、遺す。ひとはふたりで生まれてくる、ひとりで生きていくなんて無理、だからーーと。ひとりで生きていく自由も認めてくれよ。というのはさておく。
いつか、みんな、水季や海のことを忘れて、それぞれの道を歩むことになるのだろうか。津野や弥生がほかに愛する人をみつけ、子どもをつくり……ということがあるのだろうか。夏も弥生ではない誰かと海を育てていくことはあるのだろうか。
「はじまりは曖昧で終りはきっとない」と言うように、ドラマの終は曖昧な、でも心地よい余韻として終わる。ドラマは終わっても、彼らの人生は続いていく。
<文/木俣冬>
【木俣冬】
フリーライター。ドラマ、映画、演劇などエンタメ作品に関するルポルタージュ、インタビュー、レビューなどを執筆。ノベライズも手がける。『ネットと朝ドラ』『みんなの朝ドラ』など著書多数、蜷川幸雄『身体的物語論』の企画構成など。Twitter:@kamitonami
配信: 女子SPA!
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