「地獄へ落とされたようだった」妊娠5カ月目で迫られた命の選択。これまでの10年間を振り返り、いま思うこと【ゴールデンハー症候群・体験談】

「地獄へ落とされたようだった」妊娠5カ月目で迫られた命の選択。これまでの10年間を振り返り、いま思うこと【ゴールデンハー症候群・体験談】

高橋由紀さんは、長男(10歳)、二男(6歳)、長女(5歳)、パパの5人家族。長男のMくんには、体の片側に成長異常が発生するゴールデンハー症候群という先天性の病気があります。

ゴールデンハー症候群は主に耳やあごなど顔面の奇形症候群で、人によって発症部位や症状がさまざまなことで知られています。長男を出産後、自身の経験から医療的ケアを必要とする子どもや家族を支える「医療ケア親子サークルほぷふる」を立ち上げた高橋さん。Mくんの妊娠・出産時のことから、これまでの育児生活を振り返ってもらいました。全2回のインタビューの前編です。

妊娠5カ月目で突然迫られた「産むか産まないか」の選択

妊娠5カ月のある日、妊婦健診で通っていた病院から高橋さんのもとにかかってきた1本の電話。それは、「検査でおなかの子に異常が見つかった」というものでした。

「安定期に入ったばかりでおなかの子どもはまだまだ小さな時期でしたが、超音波で小脳の一部が見えない、と伝えられました。続けて、生まれても身体を動かせない可能性があること、中絶可能な期間は残り1週間ほどであること、そして『産むか産まないかを1週間以内に決断してほしい』と言われました。妊娠がわかったときはとてもうれしくて夫婦で大喜びだったので、一気に地獄へ落とされたような気持ちで…。まさに絶望というか、目の前が真っ暗になりました。

ちょうど胎動を感じ始めたころで、ポコンポコンとおなかの中で動くたびに『あぁ、そこにいるんだな、生きているんだな』と実感が湧いてきていたこともあり、そんなときに命の決断を迫られたことは気が狂いそうになるほどつらかったです。毎日葛藤して、悪夢を見るほど苦しくて、苦しくて。でもさまざまな検査をするなかで、もしかしたら身体は動かせるかもしれないという可能性も見えてきて、生まれるまでわからない部分も多かった。だから、少しでも希望があるのなら産んで育てようと決心しました。

おなかにいたころからMはあごが小さく羊水(ようすい)をうまく飲めなくて、その影響で妊娠中は子宮内の羊水が多くなりおなかがパンパンでした。実際、出産時に3リットルもの羊水が出てきたのですが、それくらいパンパンだったので身体的にも常に苦しくて。せめて精神的にまいらないように、と心がけていました。それでも気がめいって寝られない日も多かったですが、私が眠るまで夫がそばで見守ってくれたりしていました」(高橋さん)

不安な気持ちを抱えながら妊娠期を過ごしたと話す高橋さん。一時はつわりや体調不良で食事が思うようにとれず体重がガクンと落ちたりもしたそう。それでも「自分のことより、ただただおなかの子どものことばかり気にしていた」と言います。

「出産は予定日より少し早かったものの、比較的スムーズでした。ただ、顔の形成のこともあって私がショックを受けないようにという配慮なのか、看護師さんが私にMの背中だけを見せて『生まれましたよ』と。そこからすぐにNICUに連れて行かれたので、一瞬のことで生まれたばかりのわが子をちゃんと見ることができませんでした。でも、まずは無事に生まれてきてくれてホッとしましたね。

そこから私も動けるようになってNICUに会いに行きました。初めてMと対面したとき、自分のなかで『かわいい!』ってすごく思ったんです。それを後日、看護師さんに話すと『そう思えない人もいるなかで、それはすごいことですよ』と言われ、なんだかうれしかったのを覚えています」(高橋さん)

そばにいたい一心で、NICUに通い続けた10カ月間

「生まれてからさまざまな検査をするなかで、ゴールデンハー症候群だと診断されました。身体の片側がうまく育たないまま生まれてくるという病気で、うちの子は片目に腫瘍があったり、片耳の形成が未発達であったり、片方のあごが生まれつき半分くらいしかなかったりとゴールデンハー症候群特有の左右非対称の症状がありました。あごが小さくて飲み込みができないので、赤ちゃんのころは経管栄養で、私は毎日NICUに母乳を届けていました。

こう言うと意外と思われるかもしれませんが、そんななかでもMはすごく元気な赤ちゃんだったんですよ。いつも手足をバタバタ動かしていて、もう元気いっぱい。でも元気がよすぎて、ある日気管に固定されていた挿管チューブを抜いてしまって。危ないので気管切開をしたほうがいいという話になり、生後2カ月後に初めての手術を経験しました」(高橋さん)

出産からMくんが退院するまでのおよそ10カ月間。高橋さんは毎日のようにNICUへ通い続けました。

「私も産後入院している間は、毎日朝から面会時間ギリギリまでNICUにいました。NICUには医療的ケアが必要な赤ちゃんが何人もいるので常にアラート音がピーピーと鳴っているような空間で、とくに何をするでもないんですけど、ただ子どもの近くにいたいという気持ちだけでずっとそばにいました。

自身が退院してからも、母乳を届けるために毎日通いましたね。今日はミルクをこれくらい飲めたとか、沐浴(もくよく)できるようになったとか、Mの日々の成長を見るのも楽しみで。でも最初は『私がやらないと』と張りきる気持ちと子どもに会いたい一心で頑張れていたのですが、だんだんと毎日病院に通い続ける気力と体力が続かなくなってきて…。8カ月ほどたったあたりから『Mはいつ家に帰れるんだろう?』『この生活はいつまで続くのだろう?』と先が見えない不安を感じ始めました」(高橋さん)

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