「人生のピークは遅いほうがいい」が家訓。ゆっくり育てば楽しみが先に残る【ヨシタケシンスケインタビュー】

「人生のピークは遅いほうがいい」が家訓。ゆっくり育てば楽しみが先に残る【ヨシタケシンスケインタビュー】

思春期の息子2人を育てる父親で、人気絵本作家のヨシタケシンスケさん(51歳)。「たまひよ」では、10数年前に息子さんたちが小さかったころのことを振り返って、当時の思いや子育てで大事にしていたことなどについて話を聞きました。全2回のインタビューの前編です。

長男が生まれてしばらくは、あまりの変化に戸惑っていた

――ヨシタケさんは高校3年生と中学1年生の息子さんがいます。今、長男が生まれたときのことを振り返ると、思い出すことはありますか?

ヨシタケさん(以下敬称略) 上の子が生まれてすぐのことを振り返った本にも当時の気持ちを書いていますが、本当に大変でした。そもそも僕は子どもが欲しいと思っていなかったんです。小さい子に苦手意識があったし、命をきちんとケアしていく自信がなくて、責任を負いたくないような気持ちもありました。

生まれたばかりの長男は夜なかなか寝ない子で、しかも妻がリウマチになって赤ちゃんを抱っこできなくなったんです。当時僕は別の仕事をしていたので、通勤しながら家では長男のお世話もして、と慢性的な寝不足でフラフラでした。よくものを落とすし、家の中でいろんなものにぶつかるし、身体感覚がおかしくなって、まともな判断ができない状態です。子どもが生まれるまでは「今日頑張れば明日は少し楽になる」って思っていたけど、育児はそうじゃなくて、今日どんなに頑張っても明日楽にならないと気づいて。終わりが見えなくてどんどん追い詰められていく感覚は、今もよく覚えています。

生活が一変したあまり、果たして子どもを作ってよかったのかな、なんて思っちゃって。そう思ってしまったことに自分で傷つくという悪循環で、長男が生まれて最初の1年くらいはそんなふうに戸惑っていました。

――子育てに慣れるにつれて、戸惑いの気持ちは変化していきましたか?

ヨシタケ 僕の場合は、長男が言葉を話し始めてコミュニケーションがとれるようになってきて、初めてかわいいな、とちゃんと思えるようになりました。それまではしっかりお世話しなきゃ、といっぱいいっぱいでかわいいと思う余裕すらなかったんです。言葉が出始めたころから「面白いこと言うな」「こんなことやるんだな」と、子育てを楽しめるようになりました。

結婚してよかったことの1つに、自分では選ばないことにどんどん巻き込んでもらえることがあると思います。巻き込まれてみて、自分の価値観が変化していくことに最初は戸惑っていたけど、途中から面白くなっていきました。

そういえば子どもができる前、ぼくはショッピングモールのフードコートが嫌いだったんです。騒がしくて雑多で落ち着かないし、子どもがいないと関係のない空間のように思っていました。だけど、子どもができてフードコートを利用するようになったら、便利だし気兼ねなくいられるし、しっちゃかめっちゃかすぎて逆にテンションが上がるなあって。あんなに嫌いだったはずのフードコートを、いつの間にか好きになっていることに気づいたんです。

そんなふうに、子どもができてから、嫌いだったものを好きになることが増えてきました。好きだったものが嫌いになることはあんまりないから、自分のフォルダーがどんどん増えていくような、好きなものの幅が広がった感覚はあります。

二男のかんしゃくにイライラしたことも

――二男が生まれたときはどうでしたか?

ヨシタケ 長男の育児を経験しているから2人目も大丈夫だろうと思いきや、きょうだいとはいえ当然違う人なので、長男とは全然タイプが違いました。

――息子さん2人はそれぞれどんなタイプですか?

ヨシタケ ひと言でいうと長男はマイペースで二男はお調子者です。長男は何もしなくても最大限にケアしてもらえるからマイペースな子に育ったと思います。二男は生まれたときから兄というライバルがいるから、自分に注目してもらうためにおちゃらけるタイプでした。

長男は、夜泣きのときはつらかったですけど、ある程度大きくなったらわりと聞き分けのいい子でした。二男は夜はあまり泣かずによく寝る子。ただ、怒りっぽい、かんしゃくを起こしやすいところがありました。二男が家でも外でもギャーッと泣きわめいておさまらなくなることは、すごいストレスでイラッとしていました。人の子だったら全然いいのに、自分の子となると許せない感情になりますよね。

――かんしゃくを起こしたときはどうしたんですか?

ヨシタケ 外でかんしゃくを起こしてしまうと、もうどうしようもないから力ずくでその場を立ち去ることもありました。子どものかんしゃくに我慢ができなくなる瞬間に気づいたとき、親である自分を怖いと感じました。児童虐待のニュースなどを目にすると、いつ自分に起きても不思議がなかったな、と思います。子どもにイライラしたときに、もしもなにかもう1つ嫌なことが重なったら、自分もあちら側に行ってしまっていたかもしれない、とぞっとする感覚を知りました。

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