妊娠20週で赤ちゃんの疾患が判明、出産しても生きられないかも…「可能性がある限り産みたい」それが私たちの命に対する向き合い方【骨形成不全症・体験談】

妊娠20週で赤ちゃんの疾患が判明、出産しても生きられないかも…「可能性がある限り産みたい」それが私たちの命に対する向き合い方【骨形成不全症・体験談】

朝と夜、NICUに通う日々。支えはブログの執筆

――のんさんが退院したあとは、毎日NICUに通っていたそうですね。どのような生活だったのでしょうか。

のん 私が退院したあとは1日2回、NICUに通っていました。朝は私だけ、夜は仕事が終わった夫と一緒に行きました。途中でコロナ禍になり、1日1回になったり、時間制限ができたりしましたが、病院側が毎日会えるように配慮をしてくださって、1日15分でも会いに行きました。
毎日通うのはたしかに大変でしたが、とにかく会いたかったし、日課のようになっていましたね。NICUのスタッフの方たちをとても信頼していたので、安心しておまかせできました。

――NICUに入院中のある日、恵愛ちゃんが肌着を着ていてびっくりしたとか。

のん そうなんです。それまではおむつだけだったのが、生後2カ月くらいのとき、いつの間にか肌着を着ていて。肌着を着るとまた印象が変わって、かわいいなと思いました。
恵愛はそのころ身長が30cmくらいで小さかったので、病院のほうで肌着を切って、恵愛ちゃんサイズに合わせてくれて(笑)。赤ちゃんが肌着を着るのは当たり前のことなのかもしれませんが、そんな当たり前のことがうれしかったのを覚えています。

――一方で、NICUの入院中は何度か危険な状態になっては持ち直す…のくり返しだったそうですね。そのころに支えになったものはなんでしたか。

のん ブログを書くことでした。当時、やはり家族以外に相談できる人がいなくて。もちろん夫に相談できるのは心強かったのですが、どうしても吐き出せない気持ちがあると、それをブログに書いていましたね。書くことで、状況を冷静に見られたり、気持ちを整理したりできて、私自身、落ち着くことができました。ブログを読んでくださった方からコメントをいただけるのも支えになりました。

「気をつかわれたくない」人間関係も一変

――恵愛ちゃんのことを家族以外の友だちなどに相談することはなかったんですか。

のん なかなか友だちには相談できませんでした。実は同時期に妊娠したママ友がいたんです。「生まれたら同級生だね」なんて話をしていたのですが、恵愛の病気がわかって、話さざるを得なくなって話したんです。そうしたら、とても気をつかわれてしまって。
しかたがないことだとは思うのですが、気をつかわれるのが私にはしんどくなってしまったんです。腫れ物に触るような対応だったり、逆にあえて恵愛の話題に触れないようにして、まるでなかったことのようにされてしまったり。
わかっていてもどうしても傷つくし、いらだってしまうこともあります。だからほかのだれかに相談ができない、というよりは相談したくない状況でした。傷つくくらいなら、もうだれにも言わないようにしよう、と。
そのあと、恵愛のことを話せる人、話せない人ができて、人間関係もいい意味で変わっていったような気がします。

――その後、NICUからGCU(新生児回復室)に移られたんですよね。

のん GCUに移ったのは1歳の誕生日の1週間後でしたね。でも先生からはっきりと、「GCUに移ったからって別に調子がいいわけじゃないからね」と釘(くぎ)を刺されました。もう1歳になったから、移りましょうということだったようです。
恵愛をずっと診てくださっている先生はとても親には厳しくて、私も何度も泣かされたのですが、それだけ赤ちゃんにすごく愛情を注いでいる先生なんです。
「こんなんじゃ生きていけないだろう」とか、ズバッと口にしてしまう先生で。でも、それぐらい親として覚悟を持ちなさいと言ってくれているのがわかるので、厳しいことを言われるたびに身が引き締まり、とても信頼しています。

お話・写真提供/のんさん 取材・文/樋口由夏、たまひよONLINE編集部

妊娠中、恵愛ちゃんの疾患がわかってから出産を決断するまでの話には、夫婦の並々ならぬ覚悟と強い愛情を感じました。迷うことなく前を向いて進んでいるのは、のんさん夫婦2人のぶれない気持ちがあるからにほかなりません。そしてそれを支えてくれるお兄ちゃんたちや家族、病院のスタッフ、先生の存在も大きいのでしょう。

後編では、恵愛ちゃんが一般病棟に移ってから待ちに待った退院、家での様子とともに、のんさんが現在、力を入れている活動などについても聞きしました。

「 #たまひよ家族を考える 」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。

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