貧しい中で「工夫」がすごかった母親の料理
小竹:亜希さんは福井県出身だそうですが、雪はよく降りましたか?
亜希さん(以下、敬称略):五六豪雪というのがあって、私が小学校5~6年生くらいだったのですが、本当にすごい雪で交通の便が全てストップしちゃったんです。
小竹:私は石川県出身なのですが、2階から降りてスキーで学校に行っていました。福井には何歳までいたのですか?
亜希:中学校3年の2学期まで福井に住んでいました。中途半端なのですが、3学期が始まる前には東京に出ていましたね。
小竹:福井にいた頃などにお母様が作った料理が、今の亜希さんの料理のベースになっているのでしょうか?
亜希:自分が母親になってフルフルで料理をするようになって思うのは、母はそんなに料理が上手ではなかったなって…。ただ、工夫がすごかったです。あまりお金をかけなくても1食になるという術を見せてもらったと感じています。
小竹:例えばどういった感じなのですか?
亜希:普通だったら傷んでいて使わないであろうネギを綺麗に洗って蘇らせたり、お味噌汁の具材は何でもいいんだと教えてもらったりもしました。高級な具材じゃなくていいから、毎日必ずお味噌汁は飲むものだって。
小竹:うんうん。
亜希:お味噌汁を作るのが負担だというお友達もいるのですが、具材が何であっても味噌を入れれば味噌汁だと私は小さい頃から植え付けられているんです。何ならお湯と味噌だけみたいなときもあったりして(笑)。
小竹:うちはとろろ昆布だけの日とかありました。お母様はすごくお忙しい方だったそうですが、それでも料理はちゃんと作ってくださったのですか?
亜希:裕福ではなく、思い出しただけで涙が出そうになるくらいの家だったんです。お風呂もなかったし、あの状況でよく笑えていたなというような環境だったのですが、だからこそ、食卓は贅沢ではないけど必ず一緒でした。
小竹:うんうん。
亜希:「今日、私は友達とご飯に行くから何か食べといて」という家ではなく、1食1食が勝負で、安く食べることに必死だったと思うので、必ず何か工夫したものが出ていました。おいしくないなと思う日もありましたけど、母の頑張りが見えていた料理でしたね。
具のないお味噌汁(亜希さんのInstagramより)
小竹:思い出す料理はありますか?
亜希:母は冷凍のミックスベジタブルをよく使っていました。お弁当にも夜ごはんにも、何なら朝ごはんにも出てきて。あれを置いておくことで、母としては野菜を食べさせている感覚だったのではないかと今振り返ると思いますね。だから、私はミックスベジタブルで大きくなりました(笑)。
小竹:未だに教えてもらって作っている料理はありますか?
亜希:お正月だけはちょっと贅沢をしていたので、大根の煮物とか煮しめとか、日持ちするものをいっぱい作っていました。母から受け継いだというよりも見よう見まねで自分が記憶している料理は、そういった煮物ですかね。
小竹:教えてもらったというより、味で覚えているのですね。
亜希:実は何一つ教えてもらっていないんです。15歳で東京に出たので、教える時間すらなかったのかなって。だから、記憶とともに私が再生している感じです。
小竹:これは教えてもらいたかったという料理はありますか?
亜希:母の斬新な発想の湯豆腐ですね。「今日は湯豆腐よ」と言われて見たらお肉がなくて、「お肉どこ?」と聞いたら、挽肉がボウルにあって、すくう網があって、それで挽肉を湯通ししてポン酢に入れて食べるんです。
小竹:おもしろいですね。
亜希:ネギも何もなくて、豆腐と挽肉だけ。業務用の挽肉を買えば、きっと1食150円くらいでできると思うんです。だから、どうしたら安く1食になるかとか、そういうことを教えてほしかったですね。
小竹:亜希さんの本にはお母様がよく登場しますが、どういったときに思い出しますか?
亜希:母が亡くなって22年経つのですが、毎日思い出して登場回数が誰よりも多かった人なのに、22年の時を超えるとさすがに減ってくるんです。それがすごく寂しいなと思います。ただ、ベッドの近くに写真があるので、朝起きたら必ず目を合わせて「おはよう」と言ってから動き始めます。
母親にいい思いをさせてあげたくて芸能界へ
小竹:それほど仲の良かったお母様の元を15歳で離れていますが、何かチャレンジしたいことがあったのですか?
亜希:1984~85年のアイドル全盛の時代で、私もいつかなってみたいという勘違いの思いが芽生えてきたんです。あと、ちょっとお金持ちになれるのではないかという淡い期待もありました。
小竹:お母様に何かを買ってあげたいとか、そういった思いもあった?
亜希:もちろんです。お風呂がある家がいいなとか、挽肉より牛肉がいいなとか、そういう思いは子どもながらにあって。別にすごく顔立ちが整っているわけでもなかったので自信はなかったけど、母を幸せにしたいとか知らない世界に連れていってあげたいという思いは誰よりも強かったですね。
小竹:自分がスターになりたいという思いより、家族への思いのほうが強かった?
亜希:はい。それだけ母は頑張っていた人だったので。芸能人=ハワイという印象があったので、母をハワイに連れて行くのが私の一番の夢でした。
小竹:それは実現したのですか?
亜希:実現しましたし、ほかにもいろいろなところに連れて行きました。ハワイは2回行って、ラスベガスも行って、バリも行きました。でも、もっともっとと思っていたときに亡くなってしまいました。
小竹:上京したときはどういった思いだったのでしょうか?
亜希:あれよあれよとオーディションに受かって、ありがたいことに東京でデビューできることになったのですが、15歳の多感な時期なので、離れたくない気持ちと1発やってみようみたいなチャレンジ精神がありました。
小竹:お母様は?
亜希:母に相談したときに「福井にいてもあなたがやれることは少ないし、自分の人生だから好きに決めていいんじゃない」って言われて、すごく寂しい反面、その決断をくれたことをありがたいと感じました。でも、周りの人からは「15歳の女の子を東京なんかに」って言われて…。
小竹:当時は東京まで電車で7時間くらいかかりましたもんね。
亜希:そうそう。すごく時間がかかったし、パスポートがいると思っていたくらいに純粋だったので、東京に行ったら汚れちゃうみたいなイメージもあって(笑)。でも、そこで活躍できなかったらどこでやるんだみたいな葛藤の中でチョイスしたのを覚えています。
小竹:出発のときにお母様から渡された荷物がすごく素敵ですよね。
亜希:安そうな缶の中に化粧品を揃えて入れてくれていたんです。今だったらハイブランドのマニキュアとか口紅とか、1本1万円くらいするものがあるけど、母が選んだのはスーパーに売っているような化粧水や口紅でした。
小竹:うんうん。
亜希:私もサンプルとかを結構使っていて、高い化粧品なんて見たことがなかったからすごくうれしかったけど、年を重ねていろいろなものを知ったときに、こういうものをチョイスしていたことをさらに愛おしく感じました。
小竹:ジワッときますよね。
亜希:東京に出て行くにあたって、お化粧で綺麗にして恥ずかしくないように支度するためのものだったのかなと思うと感激しましたね。
配信: クックパッドニュース