巖さんの精神世界に「少しでも近づきたくて」 袴田姉弟を記録し続けたジャーナリストが描く「再審無罪」までの軌跡

巖さんの精神世界に「少しでも近づきたくて」 袴田姉弟を記録し続けたジャーナリストが描く「再審無罪」までの軌跡

●獄中で築き上げた「精神世界」に近づきたかった

――笠井さんだから撮れたと思うのですが、意に反して死刑判決を書いた元裁判官・熊本典道さんと袴田さんの再会シーンです。

ご病気の熊本さんは遠出のできる状態ではありませんでしたが、パートナーの方から「熊本さんを袴田さんにどうしても会わせてあげたい。そのことをひで子さんに伝えてほしい」といわれていました。

熊本さんとの再会が実現する直前まで、巖さんは1年余り、浜松を出なかったのですが、その行動パターンが数カ月から1年おきくらいで変わるんです。あるとき巖さんが東京に行くと言い出したので、ひで子さんは次の機会を伺っていました。そして、巖さんが「ローマに行く」と言い出すと、「じゃあ巌を九州に連れていく」と即断して。それで「ローマに行くよ」と言って、巌さんを新幹線に乗せました。

熊本さんに会うと説明しても、巖さんが理解できるかわからないけれど、それでもとにかく二人を会わせることにしたのは、ひで子さんの計らいでした。

――ひで子さんに留守番を頼まれて、最初に袴田さんと二人で過ごしたときは、緊張しませんでしたか。

最初はどう接すればよいかと思いましたが、日常生活において意思疎通に支障のないことはすぐわかりました。特に話をするわけではなくても一緒にいて、時間が来たら、ひで子さんが用意された食事を出したり、お茶をすすめたり、巖さんが快適に過ごせるように心がけました。巌さんは2015年の秋頃から、独りでふらりと出かけ、毎日歩くことが日課になりました。

――カメラが映す焼けた首筋が、真夏でも日課を全うしていることを伝えていました。

雨の日も猛暑の日も休むことはなく、1日5〜6時間、午前も午後も出かける日もありました。今は体調のこともあり、支援者の車で外に出ていますが、それは気晴らしや楽しみとしての散歩というより、巖さんにとってやらなければいけない、巖さん曰く「神として」の大切な仕事で、そこには確固たる何かがあるのだと思います。

――400時間という膨大な記録をどんな方針で編集したのでしょうか。

2時間あまりの映像にするのは大変な作業でしたが、まずは400時間の映像をすべて文字起こしして、頭にインプットしたうえでストーリーを紡いでいきました。

何より心がけたのは、巖さん自身の言葉をきちんと届けるということです。巖さんが「神として」語る言葉を「拘禁反応だからわからない」と諦めるのではなく、巖さんが獄中で築き上げた精神世界に少しでも近づこう、と。理解不能と決めつけず、巌さんが伝えようとしている言葉をまっさらな気持ちで聞こうと思っていました。

――ひで子さんは血糖値が上がろうが、階段から転げ落ちようが、袴田さんの好きにさせてあげています。

普通なら心配で、外に出せなくなりますよね。でも、ひで子さんには心配はあっても、あれこれ言わずに巖さんを見守る度量があります。誰からも見向きもされず、長い獄中生活の間も「巖は決して殺人などしていない」と言っていたように、ひで子さんは巖さんのことを心底信じています。ひで子さんが好きにさせてあげるから、巖さんは自由を謳歌できている。それは本当に素晴らしいことだと思います。

――判決後、法曹界やボクシング界など多くの人が世論に働きかけました。検察側の控訴断念をどんな思いで受け止めましたか。

控訴の可能性があると言われていた中、断念の一報に触れ、ほっとしました。同時に、無罪が確定することとなり、長い長い闘いが一つの終わりを告げたわけです。58年という、私が生まれる前からの歳月を思うと、手放しで良かったとは決して言えません。それでも、袴田さん姉弟が重荷を下ろすことができたことは、奇跡のように感じています。 そして私は、無罪の確定を見届けて、その部分までを盛り込んだ映画を完成し、劇場公開を迎えます。ただ映画の完成は終わりではなく、私はこれからも、静かで穏やかな日常を続けるお二人を見守りながら、記録を続けていきたいと思っています。

(取材・文/塚田恭子)

【プロフィール】かさい・ちあき/山梨県生まれ。お茶の水女子大学卒業後、静岡放送に入社。報道記者としてニュースやドキュメンタリー番組に携わる。アメリカ留学、中京テレビ勤務を経て、2015年からフリーとなり、作品を発表。2017年に発表した『Life 生きてゆく』で第5回山本美香記念国際ジャーナリスト賞を受賞。これまで袴田さん姉弟に関連するテレビ番組を4本手がけている。

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