静岡県一家4人殺害事件で死刑が確定した袴田巌さんの再審で無罪が言い渡されたことについて、検察のトップである畝本直美検事総長が控訴を断念する「談話」を発表したが、ほうぼうから批判の声があがっている。
畝本検事総長は、10月8日付の談話の中で、袴田さんを無罪とした静岡地裁判決について、疑念や強い不満を「抱かざるを得ません」としたうえで「控訴して上級審の判断を仰ぐべき内容」などとつづっている。
これに対して、袴田さんの弁護団は10月10日、「法の番人たるべき検察庁の最高責任者である検事総長が、無罪判決を受けた巌さんを犯人視することであり、名誉毀損にもなりかねない由々しき問題と言わなければならない」と抗議している。
弁護団以外からも「本当にひどい」「筋が通らない」「謝罪じゃない」という批判がSNSであがっている。実際のところ、今回の検事総長の談話は「名誉毀損」にあたらないのだろうか。佃克彦弁護士に詳しく解説してもらった。
●検事総長の談話は「名誉毀損」にあたるか
まず、名誉毀損にあたるか否かについては、「一般読者の普通の注意と読み方」に照らして判断するというのが判例です。つまり、問題となった記事について、常識的な読み方をもって判断をするということです。
今回の畝本検事総長の談話を読むと、「再審開始を決定した令和5年3月の東京高裁決定には重大な事実誤認がある」と冒頭でいきなり言っています。これは、再審開始決定に「重大な事実誤認がある」と言っているのですから、常識的に読めば、”事実の認定についての裁判所の判断は間違っている。犯人は袴田さんだ”と言っているように読めます。
またこの談話はこれに続けて、「改めて関係証拠を精査した結果、被告人が犯人であることの立証は可能であ…(る)との判断の下、…再審公判では、有罪立証を行うこととしました」と言っています。「被告人が犯人であることの立証は可能であ(る)」ということは、”自分たちは袴田さんが犯人だと立証できる”ということであり、これはつまり、”自分たちは袴田さんが犯人だと思っているし、それを裁判で立証できる”と言っているに他なりません。
その後、”しかし今回再審公判で無罪判決を受けたのでその結果を受け容れる”という話になっていくのかと思いきや、畝本検事総長は、再審公判の「本判決は、…到底承服できないものであり、控訴して上級審の判断を仰ぐべき内容である」と畳みかけています。これは、“控訴すべき内容だ”と言っているのですから、”無罪判決は間違っている”と言っているにほかならず、つまり、”袴田さんは犯人だ!”と言っていることになります。
畝本談話はこのようにして、”4人の人を殺した犯人は袴田さんだ”と言っているわけです。
そして、人を殺人犯呼ばわりすることが名誉毀損にあたることは言うまでもなく、畝本談話は袴田さんの名誉を毀損するものであり、しかもその毀損の程度は著しいものであると言えます。
●検事総長の談話に「免責の余地」はあるか
一般に、名誉毀損言論でも、(1)事実の公共性、(2)目的の公益性、(3)摘示事実の真実性または真実相当性があれば、違法性や責任が阻却される(この理屈は「真実性・真実相当性の法理」と言われています)、というのが判例・通説です。
この法理は、市民の表現の自由を保障するために、名誉毀損言論について一定の免責の余地を認めたものです。
しかし、今回の畝本談話は、検察庁という権力機構のトップの談話であり、畝本氏はこの談話の公表を公権力機関の業務としておこなっているのですから、そのような公権力機関の行為には表現の自由を保障すべき余地はありません。
このような公権力による公表行為の場合には、上記の真実性・真実相当性の法理を用いず、公表内容の真実性・公表の必要性・相当性等の個別的な事情を総合的に衡量して免責の可否を決めるのが近時の主流の考え方です。
では畝本談話は、総合的衡量の末、免責が認められるようなものか。
(1)まず、公表内容の真実性の点を見てみましょう。
畝本談話は、”袴田さんが殺人犯だ”と言っているわけですから、それが真実だというのであれば、”袴田さんが殺人犯だ”ということの真実性を畝本氏側が裁判で立証しなければなりません。
しかし、再審公判では無罪判決が出たうえ、”袴田さんは犯人だ”と言っている張本人であるところの検察庁自身が控訴をしなかったというのですから、これは、検察庁自らが”袴田さんは犯人だ”ということの真実性を立証できないと言っているようなものです。
つまり、公表内容に真実性が認められる余地はないといえるでしょう。
(2)では公表の必要性の点はどうでしょうか。
畝本談話は、文字通り「談話」であり、法律上、公表が必要とされているものではありません。
検察庁のトップとして、袴田さん無罪判決に対して”控訴しないことにした”と言うことは必要だったでしょう。しかし、必要だったのはそこまでです。
“袴田さんが犯人だ”などということは、”控訴しないことにした”という用件を伝えるうえでまったく必要がないことであり、よって、公表の必要性は認められません。
(3)では公表することに相当性があったといえるでしょうか。
袴田さんは、50年以上も無実を訴え続けてきて、このたび、ようやく無罪となったわけです。そのような状況において、検察庁が、自分たちは控訴をしないでおきながら(私は決して『控訴をしろ』と言っているわけではありません。念のため)、それでもなお”袴田さんは犯人だ”と言うことは、アンフェアの極みです。
検察庁が控訴をしなかったということはつまり、控訴をしても判決をひっくり返す見込みが立たなかったということにほかならず、そうであるならば、自分たちの見込み違いを反省しておとなしく引き下がるべきでしょう。そうであるにもかかわらず、公訴権を独占している検察機構のトップが「談話」と称して、”袴田さんは犯人だ”と言うことは、不見識極まりないと言わざるを得ず、公表することに相当性が認められる余地もありません。
配信: 弁護士ドットコム