帝王切開での出産直後に、同じ手術台で乳がん切除。産後は、希望と地獄の両方を抱いているようだった【妊娠期がん経験談】

帝王切開での出産直後に、同じ手術台で乳がん切除。産後は、希望と地獄の両方を抱いているようだった【妊娠期がん経験談】

待望の妊娠が判明してすぐ、進行性の乳がんを患っていることがわかった福田ゆう子さん。その病状は、最初に受診した医師に「成長を見られなくても子どもを優先するか、今後も含めて子どもを諦めるか」の選択を迫られるほどでした。そんな福田さんが治療を受けながら無事に出産し、お子さんは今年でもう10歳。がんと向き合いながらどんな妊娠生活を送り、産後はどう過ごしたのかを聞きました。全2回のインタビューの後編です。

帝王切開とがん切除の同日手術後、すぐに母子同室に。縫ったばかりの傷口のある胸も張り、激痛が…

最初にかかった病院では、自分自身か赤ちゃんかどちらかを選択するように促された福田さん。しかし、あきらめずに頼りになる病院と医師を見つけ、周囲に励まされながら妊娠中の抗がん剤治療を乗り越え、ようやく出産。しかし、出産しても苦難の道が待っていました。

「生まれた息子はとても元気でしたが、胎内にいたときに抗がん剤治療を行っていたということもあり、出生後にいろいろ検査をしたようです。結果としては、健康面にとくに異状なしとのことで、ホッとしました。

当時、妊婦への抗がん剤投与は、日本ではまだ臨床試験段階でしたが先生も十分説明してくれていたので、納得して抗がん剤治療を受けていました。それに、あのときはもう、赤ちゃんも自分も共倒れしないためには、先生を信頼して治療を受けるしかありませんでしたしね。

ただ、赤ちゃんが無事に生まれてきてくれたのは本当によかったのですが、私のほうは、帝王切開とがん切除の手術を同日に行ったうえ、すぐに母子同室で赤ちゃんのお世話が始まり、それはもう地獄のようでした。

というのも、私の場合、手術は右胸のみ。手術をしなかった左胸だけ搾乳して授乳していたんですが、がんの切除手術後も右胸の乳腺が残っていたので、縫ったばかりの傷口がある右胸もパンパンに張るんです。これが本当に痛くて、痛くて。母乳で傷口が開いちゃったら再手術になると言われたのも恐怖でした。体には、痛み止めの点滴や、術後の浸出液や血液などを流すドレーンがいくつもついた状態で、張った右胸を保冷剤でずっと冷やして、それでも一睡もできなくて…。苦しかったですね。赤ちゃんを産んで、希望と地獄の両方を抱いているような気分でした。

出産した病院が母乳育児を推進していたということもあってか、産後数日はそうやって左胸だけ搾乳しながら痛みに耐えていたのですが、傷口が開く恐れがあるということで、薬で母乳を止めることに。私も痛みがものすごかったのでギブアップして、息子は早々に完全ミルクになりました」(福田さん)

出産の喜びもつかの間、地獄のような痛みを体験した福田さん。しかも、産後3週間からは妊娠中にはできなかった強い抗がん剤を使った治療が、そして産後5カ月からは放射線治療も始まります。退院後、抗がん剤治療が始まるまでは、静岡の実家に里帰りした福田さんですが、自宅に戻り、抗がん剤治療を行いながら、赤ちゃんを育てていくには周囲のサポートが不可欠でした。

「妊娠中の抗がん剤治療で、私の右胸にあったがんは小さくなり、手術でがんがあった部分も切除しましたが、体内には見えないがんが、リンパにのって全身に広がっている可能性があるんですね。そのため、産後にも抗がん剤と放射線治療を行うんです。

すると、退院までに産院のソーシャルワーカーの方が、『乳がん治療中のママが退院する』ということを自治体や地域の家庭支援センターの保健師さんなどに、あらかじめ連絡をいれておいてくれたんです。そのおかげで、自宅に戻ったあと、家庭支援センターの保健師さんが自宅を訪問してくれて、その後のサポートについて相談することができ、とても助かりました。

半日くらいかかる産後の抗がん剤治療に、新生児を連れて行くわけにもいかないし、抗がん剤の副作用もどうなるかわからなかったので、産後最初の抗がん剤治療のときには、実家の母と妹に息子を預けたまま、私だけが東京に戻り、治療を開始しました。約1週間後、副作用が少し落ち着いたころ、息子を東京に連れてきてもらい、抗がん剤治療を行いながらの家族3人暮らしがいよいよスタートしたんです。

抗がん剤治療中は、とにかく体がだるくて動けなくなるので、夜中のミルクは、夫にお願いして、昼間は私が頑張る。助かったのは、息子は頻回に泣くタイプじゃなかったのと、ミルクを飲ませたらよく寝てくれる子だったということですね。あとは、だれが抱っこしても大丈夫で、私じゃなくても、夫や母、妹の抱っこでも泣きやむし、寝てくれたのも助かりました。生後3カ月になってからは、治療のときには地域の一時預かりにお願いすることもあったんですが、そういうときもまったく平気で。空気を読んでくれていたのかな。

その後、生後5カ月くらいからは放射線治療に週5で通うことになったのですが、そのころも体がしんどくて。治療できついのか、産後できついのか、もうよくわからなかったです。

それでも通院しなくちゃいけないから、夫や行政の一時預かりにお願いしたり、友人が駆けつけてくれたり。だれにもお願いできないときには一緒に連れて行きましたが、7~8月の猛暑の中、着替えやミルクなどの赤ちゃんのグッズを抱えて、毎日往復2時間かけて病院に通うのはなかなか大変でした。

待ち時間や治療後の診察などを考えると小1時間はかかるのですが、院内では事情を知っている看護師さんや医師が、かわるがわる息子を抱っこしてくれました。本当にみなさんにサポートしてもらって、治療を続けることができたと思います」(福田さん)

そうやって産後の放射線治療が終わるころ、保育園に空きが出て、息子さんの入園が決まったという連絡が自治体から入ります。

「本当は、毎日の放射線治療をしているころに預けられたらいいね、と保健師さんと話していて、家庭支援センターもすごく親身になって探してくれたのですが、保育園が決まったのはちょうど放射線治療が終わるころ。毎日の放射線治療通いが終わったら、少しゆっくりできるかなと思っていたのですが、保育園に入れたら、今度は仕事に復帰しなくちゃいけない。結局ゆっくりする時間はとれず、すぐに育児と仕事の両立が始まることになりました」(福田さん)

共感し合い、メンタルを支えてもらった同じ病気の同年代の仲間たち。今度は自分がサポートする側に

がん治療から休む暇もなく仕事に復帰し、子育てにも奮闘した福田さん。その後しばらくすると、育児・仕事だけではなく、自身の闘病経験から、若年性がんのサポートをするボランティアを始め、オンラインで患者同士が交流を持てるサイト「PeerRing(ピアリング)」の運営にも携わるように。そのきっかけとは…。

「私自身、がん判明から、セカンドオピニオンを受けて、転院するまでたった2週間程度。この間にもがんは大きく、痛みも強くなり、進行の早いがんということで、すべての判断を急がねばなりませんでした。

ただ、ライターという職業柄なんでしょうか、何でもかんでも調べなくちゃ気が済まないというか、きちんと裏を取らなくちゃ!という気持ちがあったんです。でも普通は、最初に出会った医師にこの治療法しかないと言われたら、そういうものなんだ、と思っちゃいますよね。

私も最初の病院のままだったら…と思うと怖いです。でもだからこそ、治療が終わったら、自分の経験をどんどん発信していこうと思いました。実際、子宮頸がん患者の方で、私の経験を知って治療を始め、同じ病院に転院して無事出産をしたというお話をインターネットのニュースで読んだことがあり、すっごくうれしかったんです。

また、私が出産した病院は、妊娠中の乳がん治療の実績もあり、臨床試験の過渡期だったこともあってか、私と同じように妊娠期に乳がん治療をしている方がほかにも数人おり、先生の紹介でつながることができました。また、先生は『若年性の乳がんの患者会』も紹介してくれて、そこにも参加しました。

もちろん夫も家族も心配はしてくれるんですけど、『わかる、わかる~』みたいな共感はできないじゃないですか。だから、同じ病気の同じ世代の人たちと集まって話ができて、単純に共感してもらえる場があるのはうれしかったし、メンタル面を支えてもらったと思います。

そういう経験を経て、同じような仲間と共感できるようなコミュニティがあったらいいなって思っていたので、『PeerRing』の代表から「同じ病気を抱えた人がつながれる場をつくりたい、手伝ってくれる人を探している」と聞いたとき、私も参加して、今度はサポートする側(がわ)になりたいと思ったんです。

2017年に設立したSNSコミュニティ『PeerRing』は会員も増え、新たなコミュニティを立ち上げるなど大きくなりました。そして私自身は、その団体での仕事のほか、小・中・高の学校や企業におけるがん教育の講師や、がん患者団体の役員などもしています。がん治療をしていたころは週に2~3日働く程度だったのが、体が元気になるにつれて、仕事も増えてきた感じです」(福田さん)

福田さんが、サポートする側になって7年目。現在、経過観察として年に1度定期検診を受けているものの、手術から10年がたち、再発のリスクはかなり減ったそう。そして、息子さんは10歳に。自身が患った病気のことも、息子さんにオープンにしてきたと言います。

「がんでも、がんでなくても、人は病気になるものなので、隠すことでもないと思い、息子には病気のことを話してきましたし、小さいときから、がん患者が集まるイベントにも積極的に連れて行っていました。

保育園くらいになると、私が『実は私、この子がおなかいるときに、がんって診断されたんですよね』なんて話していたら、息子が『で、子どもはあきらめてくださいって言われちゃったんだよね』って、合いの手を挟むようになりました(笑)。そのくらい、息子の中では、病気が特別のことではないと思えているのかもしれません。

ただ、最近では、手紙や日記に『ママ、がんなのに頑張って産んでくれてありがとう』『ママはすごく頑張って自分のことを産んでくれた』と書いてくれたりすることもあるので、心に響いているものはあるのかなと思いますね。

とはいえ、10歳男子、反抗期ですからね。親子げんかになると『本当は僕なんかいなきゃよかった』なんて言うこともあります。そんなときは、『ママ、がんでお医者さんに死んじゃうかもしれないって言われながら頑張って産んだんだよ。だから、もう絶対そういうことは言わないで』みたいな話をすることもありますよ」(福田さん)

治療で大変だった日のお話も、サポートする側にまわってからのお話も、常にパワーがあふれているように感じる福田さん。そんな福田さんが今、妊婦さんやママに伝えたいことは…。

「そうですね、行政などでもいいので、親以外で頼れる窓口をたくさん見つけておくことが大事かなと思います。私の場合、産後に家庭支援センターの保健師さんが家に来てくれて、話を聞いてくれただけで、気持ちがすごく楽になったんですね。

産院によっては、相談室があるところもありますよね。医師には妊娠中の不安をなかなか聞けなくても、看護師さんに相談できるなら相談したほうがいい。

あと、もし妊娠中に病気が判明した方がいたら、勤めている会社にも頼ってほしいです。がんになった人が会社を辞めちゃう話をよく聞くんですが、私は辞めずにいて、本当によかったと思っているんです。会社にいれば、産前産後休暇や育児休暇がもらえたり、手当や給付金も出る。治療にはお金もかかるけど、そういうときに会社が助けてくれることもある。私はそれが本当に助けになったので、病気になったからって仕事をすぐに辞めないでほしいなと思います。

とにかく頼れるものは頼ったらいいし、信頼できる相談先をたくさん見つけておくことは、行き詰まったときに本当に役に立ちます。不安なときに相談する先がないと、もっと不安になるんですよね。そんな状態でネットを見ると、多分みんなネガティブな情報に吸い寄せられちゃいがち。そういう意味では、そのメディアが信頼できるかどうかの見極めも重要ですよね。

しっかりした情報源と、信頼できる相談窓口をいくつか持っておくこと。私は、生きていく上で、この2つはとても大事だと思っています」(福田さん)

お話・写真提供/福田ゆう子さん 取材・文/酒井有美、たまひよONLINE編集部

妊娠中に判明した乳がんと向き合い、あきらめずに常に前を向いて、妊娠中の治療、出産、手術、そして育児と治療の両立と、次々に現れる課題を乗り越えてきた福田さん。10歳になった息子さんの笑顔があるのも、あのときの頑張りがあったからと思うと、感慨深いです。これから困難に出会ったとしても、自分をしっかりと持ち、頼れるところには頼りながら乗り越えていきたい――。そんな風に思える福田さんのお話でした。

「 #たまひよ家族を考える 」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指して様々な課題を取材し、発信していきます。

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