誰かが悲しいときに。「ごはん食べた?」に込める思い

「日常」を取り戻すために

母が亡くなった時、私自身が日常を取り戻すためにいろんな人たちに助けられたことを、改めて思い出しました。

近所に住む若いお母さんは、おにぎりを作って家に持ってきてくれました。そのお母さんは、昔まだ小さかったお子さんを事故で亡くされていて、その時、私の母が「何も食べられへんと思うけど、ちょっとでも食べて」とサンドイッチ作って持ってきてくれたのだと教えてくれました。

「周りに仲良い友達とかもそんなにいなくて、本当に何も食べたくなかったけど、まいちゃんのお母さんのサンドイッチがほんとにうれしくて。だからまいちゃんもよかったらおにぎり食べて。つまみやすいものがあの時うれしかったから」と、そのお母さんは言ってくれました。

同期の友人たちは、お葬式に弔電を送ってくれました。そこには「いつでもまいちゃんを思っています。東京でも、大阪でも、名古屋でも、福岡でも。」と、弔電の定型文とは全く違うメッセージが書かれていました。

みんな入社1年目で、まだ今よりずっと若くて、弔電の出し方だってろくに知らなかったはずなのに。あの日「長女だからしっかりしなきゃ」と気を張っていた気持ちがふっとゆるんだことを思い出します。

おにぎりも、弔電も、あの時自分の日常を取り戻すための力になっていったのだと思います。

「気にかけているよ」「思っているよ」の気持ち

しんどいとき、悲しいとき、心に響くのは、「気にかけているよ」「思っているよ」という、そういう気持ちだと思います。それだけで痛みがすべてなくなるわけではもちろんないけれど、そういう気持ちや言葉に触れることで、少しずつ少しずつ、日常を取り戻していくのだと思います。

そういえば、母のお葬式から1ヶ月ほどたった頃、普段めちゃくちゃ厳しい会社の先輩が「ムッシー、もうすぐ1ヶ月だね」と声をかけてくれました。思いがけずかけられた言葉がうれしくて、ふと昔母が言っていたことを思い出しました。「お母さんのお兄ちゃんが亡くなった時『もうすぐ一周忌だね』と声をかけてくれた友達がいて、それがとてもうれしかった。亡くなったばかりの頃はみんなお兄ちゃんのことを覚えていて、気にかけてくれたけど、自分含めてだんだん忘れていってしまう気がして。でも時間がたっても気にかけてもらえたことが、なんだかうれしくて救われた」と。

「ごはん食べた?」は、そういう「気にかけているよ」「思っているよ」という気持ちのこもった言葉だなと思います。そして日常を大切にしてねというメッセージにもなります。ごはんというのは、日常の、大切な瞬間だから。

日々いろんなことはあるけれど、悩むこともしんどいこともあるけれど、ヤクルトは今年も激しい(?)最下位争いの末5位だったけど、誰かのその一言で、ちょっと心が軽くなる。ごはんを食べる大切さを思い出すことができる。「ごはん食べた?」、いい言葉だなあと思います。

大好きな友人が、そして今まさに心に大小さまざまな痛みを抱える人が、簡単なものでもいいからあたたかいごはんを毎日食べて、少しずつ元気になっていけますように。祈っています。

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アイスム
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がんばる日も、がんばらない日も、あなたらしく。「食」を楽しみ、笑顔を届けるメディア、アイスムです。 食を準備する人の気持ちが少しでも軽く、楽しくなるように。 おうちごはんのレシピや食にまつわるコラム、インタビューなどを通じて新しい食シーンを提案します。
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