東京都豊島区の勝林寺住職・窪田充栄さん。長男と三男は発達障害、二男は脳性まひによる肢体不自由と子ども3人にそれぞれ障害があります。窪田さん自身も障害児の親となり、それまで感じたことのなかった孤独や先のことがまったく考えられない不安にさいなまれる毎日、大変すぎて診断を受けた当時の記憶はあまりないと、隣で話を聞く妻の奈保さんと当時を振り返ります。
前編では、障害のある子どもの親としての苦しみを乗り越えながら、子どもたちに寄り添う窪田さんの話を聞きました。
幸せそうに散歩する家族を見るたびに孤独を感じた毎日
――3人の息子さんそれぞれに障害があると聞きました。
窪田さん(以下敬称略) 中学2年生の長男は、3歳のときに、発達障害(自閉スペクトラム症)であると診断されました。小学6年生の二男は分娩がうまくいかずに脳性まひの状態で生まれました。5歳の三男にも発達障害があります。
長男の発達障害の診断がおりたのと二男が生まれたのはほほ同じタイミングでしたから、すごくショックでした。当時、長男はほとんどしゃべらず、まわりの子とは全然違っていて、どこかおかしいのではと何となく感じていたので「しかたないか・・・」とも思いました。しかし、それまで想像していた子どもとの楽しい暮らしのイメージとのギャップが大きすぎて、一生この子たちを養護していけるのだろうかという不安と絶望でいっぱいになりました。
――ほぼ同時に2人の息子お子さんの障害がわかったということですね。
窪田 私の場合、二男が生まれてからしばらくは外を歩くのがしんどかったですね。とくに散歩の途中によその家族が手をつないで幸せそうに歩いている姿を見るのがつらくて・・・。「なんで私だけこんな思いをしなくてはいけないんだろう」と孤独を感じていた時期でした。
だれかと話がしたいけれど、話したことで何かを言われるのもしんどかったですね。相手が私のためを思って言ってくれているとわかっていてもきつかったです。「天は越えられない壁は与えない。あなたならきっと越えられるから大丈夫」と言われたときには、「ふざけるな」とすごく天を恨んだことを覚えています。僧侶でありながら、当時は「神も仏もない。日々の祈りにどんな意味があるのだろう」と悩み、日常が送れる日が本当に来るのかと不安しかありませんでした。
一方でそんな私を救ってくれたのは、同じように障害のある子どもを持つ家族との交流会で、「このような境遇にいるのは自分だけじゃない」と思えるようになりました。
描いた絵がほめられたり、喜んでくれたりするのがうれしくて…
――長男はその後保育園に入園したのですね。
窪田 医療的ケア児である二男に手がかかるので、長男を保育園に預けようという話になりましたが、当時は待機児童が問題視されていたこともあってなかなか見つかりませんでした。ようやく受け入れてくれる保育園を見つけホッとしたものの、一緒にいる健常な子との差をまざまざと見せつけられた時間でもありました。
保育園は長男にとってあまり居心地のいい場所ではなかったようです。小さな子どもたちが息子の状態を理解できるわけはありませんから、悪気はないとはいえしゃべれないことでばかにされるような場面もあったようです。
その長男が小学校に入学したころから、ひとり遊びをしていると思ったら、突然絵を描き始めていたんですよ。それからは暇さえあれば絵の道具を持ち出してずっと絵を描いたり、はさみを使っていろいろ切ったり貼ったり折ったりしていました。
――絵画展を開いたり、絵画コンクールに入賞したり、長男の描いた絵は多方面から高く評価されています。
窪田 絵を描くのがとても好きな様子だったので、「才能があるなら伸ばせたら」と絵画教室を探しましたが、なかなか彼に合う教室が見つかりませんでした。それなら家に先生に来てもらおうと、「くつろぎば」の工作ワークショップで教えてくださっていた芸大の先生にお願いすることにしました。
コロナ禍だったこともあって、それから週に2回くらい、先生が来てくださるようになりました。「技術を教えると彼のよさがなくなってしまうから」と、ときどきモノの見方やバランスの取り方などはアドバイスしてくれますが、基本は隣にいて一緒に絵を描くスタイルです。それが彼にはとても心地よかったようです。
自分の絵がほめられたり、自分があげた絵をみんなが喜んでくれたりする機会が増えたことで、自信がついたのか、それからは学校へも楽しく通えるようになったようです。
「学校に行きたくない」と不登校気味な状態が続いたことがありましたが、その間も絵だけはずっと描いていましたね。彼にとってコロナ期間はちょうどいいお休みだったのかもしれません。
配信: たまひよONLINE