吉永小百合さん主演で映画化された『いのちの停車場』のシリーズ3作目『いのちの波止場』。主人公は広瀬すずさんが演じた看護師・麻世。彼女は能登半島の穴水にある病院で、「緩和ケア」について学んでいきます。モルヒネ、ICD、胃瘻……。医療スタッフと患者、その家族たちのリアルで切実な問題を本文よりご紹介します。
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余命少ない認知症の父への、胃瘻造設を強硬に主張する息子。
第三章 親父のつゆ
77歳の寛介は蕎麦屋の店主だったが、14年前から認知症を患い、店は息子が継いでいる。誤嚥性肺炎を繰り返す寛介に、なんとか栄養をつけて元気にしたいと、妻と息子が胃瘻の造設を強く迫る。医師の北島は、死期の迫った寛介にメリットはなく、苦痛を与えるだけだと説くが……。
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夕方の五時を過ぎたころだ。緩和ケア病棟のナースステーションに、病院の警備室から緊急コールとでも言うべき電話が入った。
「もしもーし! こちら警備室です。今ですね、消化器内科の病室で、患者さんのご家族さんが暴れています。緊急の対応をお願いします!」
「はあ? あの、こちら緩和ケア病棟ですけど……」
「そ、それがですね、騒ぎを起こしてるのは、緩和ケア病棟に入院されてる患者さんのご家族なんですよ」
通報を受けて、市村師長と妹尾先輩の二人が二階にある消化器内科のフロアに駆け下りて行った。そしてその五分後、今度は妹尾先輩から私のもとへ電話が入った。
「あっ、星野さん? あのね、こっちで騒動を起こしてるのは、大山寛介さんの息子さんなのよ。ね、だから今すぐ、あなたもこっちに来て!」
息を切らして二階に下り立つと、北側廊下の奥にある病室の前で人だかりができている。
「どういうことげんて! きちんと説明してたいまよ」
室内から聞こえてくるのは、まさしく勇一さんの声だ。
「なんでウチの親父がダメでぇ、この人たちはOKながけ!」
部屋の中央では、勇一さんが少林寺拳法か何かに使うような長い棒を右手に持ち、激しい調子で怒鳴っている。その傍らで、母親の典子さんが床の上にぺたりと座り込んでいた。
「そやさかいこうしてお願いしとるでないですけ。うちたちは、親父を長生きさせてほしいだけげんて」
棒の先で床をドンドンと突く音が部屋中に響き渡る。そこは四人用の病室。上体をわずかに起こした男性の患者さんたちが、戸惑いの表情を浮かべている。それぞれの患者さんに共通しているのは、ベッド脇のスタンドに白い液体の入った小さなバケツが吊り下げられ、そこから患者さんの腹部に向かってチューブがつながっていることだった。ちょうど今は夕食の時間帯だ。
「肺炎は治ったんやさかい、早いとこ親父に、胃瘻ってやつを造ってやってたいまよお」
なんと、勇一さんは胃瘻造設を要求していた。
胃瘻とは、食物を胃へ直接送り込むために、腹壁に開けた穴のことだ。先天的な問題や脳梗塞など、物理的あるいは機能的に飲食物を飲み込む機能が欠落した場合に手術で造られ、第二の口とも呼ばれる。
「認知症でも胃瘻を造れぁ、さらにもう何年も生きられるって聞いたぞ!」
勇一さんがわけ知り顔で言った。息子さんを見上げながら、典子さんも大きくうなずいて口を開く。
「お父さんに一日でも長生きしてほしいがや。どうか、こちらの科で手術を受けさせてたいま。お願いします」
二人は、寛介さんの胃瘻造設を求めて、手術を担当する消化器内科に乗り込んで直談判していたのだ。
配信: 幻冬舎Plus
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