息子のためになることを探す。その思いに突き動かされ、日本各地の病院も受診
――療育に通う中で、ボランティアスタッフから言われた、印象的な言葉があったそうですね。
敦子 療育センターに通い始める前に、市の訓練会に通っていました。息子が3歳になる前ごろだったと思います。ボランティアのスタッフさんが「この子の将来は決まっている。大人になっても働くことはできないでしょう」って。
こう聞くと「なんてひどいことを言うんだろう」と思われるかもしれませんね。でも、そのスタッフさんの発言の意図は「お子さんをフォローする道筋はできているから、お母さんたちは思い悩まなくても大丈夫ですよ」という励ましだったんです。自閉症のお子さんをたくさん見てきたスタッフさんで、私の気持ちを楽にしてあげたいという心配りからの言葉だったと思います。
自閉症の子どもが、大人になっても受けられるサポートがあるのはありがたいことです。でも、3歳になるかならないかの子どもの人生がすでに決まっている、成長や発達は望めないなんて、そんな悲しいことはありません。とてもショックを受けました。
少しでも息子の状態をよくしたいと願い、必死でいろいろな場所に連れて行って頑張っているころだったので・・・。
――日本各地のさまざま病院でも相談していたそうです。
敦子 自閉症の診断やフォローアップを行っている病院を調べて、博仁によさそうと思えたところは、家からの距離はまったく考えずに受診していました。北海道の病院にも行ったし、一度だけアメリカ・カリフォルニアの病院に行ったこともあります。当時は「博仁のために何かせずにはいられない」っていう心境でした。
博仁の成長とともに、私の中のそうしたひっ迫感は落ち着き、今は家から通える大学にあるクリニックで、定期的に診てもらうだけになっています。
――博仁さんの自閉症のことを、夫婦ではどのように話し合っていましたか。
敦子 夫には検査の様子や結果などを逐一話し、共有していました。夫はわりと深く考えるタイプなので、私の中で消化してから報告する、という感じだったかもしれません。
でも、博仁のために何ができるか、何をすればいいのかは常に一緒に考えました。「博仁の可能性をあきらめずに信じる」。これが私たち夫婦共通の思いでした。
私の手を使って次々に正解を当てる息子。言葉の意味をわかっている!?
――言葉を理解できないと思われていた博仁さんに、驚くようなことが起こりました。
敦子 忘れもしない2歳半ごろ、私の実家にいたときのことです。ボタンを押すといろいろな音が鳴り、それが何の音かを当てるおもちゃで、一緒に遊んでいました。言葉の意味はわからなくても、音が鳴れば楽しいかなと思って。
救急車のサイレンが鳴り、「これは何の音かな?」とおもちゃが問いかけたとき、博仁が突然私の手をぐっとつかみ、正解である救急車の絵のところに持って行ったんです。私は一緒に見ていた母と顔を見合わせて、同時に「えっ!?」。
あわてて「これは?」「これは?」「これは?」って次々に音を出していきました。すると、博仁は問われるたびに私の手をつかみ、正解を示しました。全問正解です!! 今では自分自身で文字を打てますが、当時は自分の手を自分の意志で動かすことが難しかったんです。
「偶然なんかじゃない。この子は問われたことを理解して、ちゃんと正解を出しているんだ」って確信しました。
今でも忘れられない瞬間です。これからも一生忘れないと思います。
自宅に帰る道中、車を運転しながら「そうだよね、わかっていたんだよね~」と、何度も何度もつぶやいていました。暗闇に光が差したように感じたんです。
お話・お写真提供/内田敦子さん 取材・文/東裕美、たまひよONLINE編集部
妊活の末に授かった博仁さんに重い自閉症があることがわかり、絶望的な気持ちになったという敦子さん。でも、「博仁のためになることを探す」という強い思いから、さまざまな療育を受けたり、病院で相談したりする日々が続きました。そして3歳になる前に、博仁さんが言葉を理解していることがわかったのです。
インタビューの2回目は、言葉を話せない博仁さんが、キーボードで言葉をつづれるようになるまでの経過などについて聞きます。
「 #たまひよ家族を考える 」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2024年10月の情報であり、現在と異なる場合があります。
配信: たまひよONLINE
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