舞台『ヴェニスの商人』、いよいよ開幕!
もう師走ですしのんびりしますか~! といきたいところだけれど、舞台の本番が始まる。今年の年末年始、というか秋の終わり頃から、私の日々はシェイクスピア一色。「ヴェニスの商人」の上演に向けて、稽古場通いの毎日だった。
▶︎舞台「ヴェニスの商人」公式ホームページ
今月からは劇場通いの毎日になる。10代で演劇を始めてから、ずっとやりたかったシェイクスピア。「どうしてやりたかったんですか?」と取材で聞かれたけれど、正直、大それた理由はない。アメリカに行ったらハンバーガー、韓国に行ったらレバ刺し、日本はやっぱりお寿司でしょってな具合に、演劇やるならシェイクスピアをやってみたかった。400年前の戯曲が今も世界的に大ヒットしてるなんて狂った事象、他にあまりないだろうし。
400年前、と聞いて「あ~あの時代ね」と思い当たる何かがあるあなたは超凄い。いっぱい勉強してきたんだね。私は何も思い当たりません! 400年前ってなんだよ。調べてみると、400年前は日本の戦国時代にあたる。戦国時代?! 大河じゃん。大河すぎて逆に身近である。もっと詳しい年数で調べてみよう。
「ヴェニスの商人」が書かれたのは1597年前後。この時、日本を仕切っていたのは豊臣秀吉だった。そして秀吉は、1597年にカトリック信者を処刑している。遠くの地で生まれたキリスト教って宗教が、400年前に既に日本に到着していて、しかも禁教令を出すほどの波を起こしていたなんて……SNSないのに……人間の行動力は本当にすごい。ちなみに、この翌年1598年に秀吉は亡くなった。
ボウリング場の絵が飾ってあるわけではなく、ボウリング場を見る為の窓。あまりにも可愛くてここに住みたい。
大昔である。戦国時代だぞ……? 秀吉だぞ……? 私からしたら、それら全てはほとんど物語の域に達している。現実にあったこと、存在していた人間だと頭でわかってはいても、もはや物語だ。実際に、戦国時代は沢山の物語になっている。それと同じ時代に書かれた「物語」が、今も世界中で上演され続けていること。冷静に考えてヤバすぎる。誰もが知る「ロミオとジュリエット」が書かれたのも戦国時代だ。起きていることのスケールが大きすぎて頭が痛くなってくる。
なぜシェイクスピアは私たちの記憶に残り続けるのか
鉛筆が発明されたのも400年ほど前だ。「鉛筆がない時代があった」そりゃそうだ。初めからあったものなんてほとんどない。だけどあの、鉛筆さんが? まだなかった? それなら人は、どんな風に言葉を書いていたんだろう。今、思いついた何かを、どうやって覚えておいたのだろう。物語をどんな風に紡いだのだろう。
昔どこかで「書いて記録できないから詩にする」という話を聞いたことがある。これは400年前よりもっともっと昔の話だけど、書けない時代が、というか「書く」という動詞が存在すらしていない時代が、確かにかつてあったのだ。書き留めて覚えることができないのなら、歌って覚えればいいのだと、閃いたのは誰だろう。誰でもない、ありふれた生活の知恵だったのかもしれない。確かに、歌は不思議なくらい覚えられる。ただ聞いてるだけなのに、言葉がするする身体に馴染む。
シェイクスピアの台詞は長い。そして、目が回るほど韻を踏む。「ここまでする必要ありますか?」と、現代の私たちが感じてしまうほどに。だけど、だからこそ、こんなに売れたのかもなとも思う。
「この劇良かったよ~」「この映画面白いよ~」誰かに何かを薦める方法が、私たちにはいくらでもある。チラシを渡してもいいし、リンクを送ってもいい。演劇も宣伝のために、映画のような予告編を作る時代だ。沢山の方法で、私たちは良いものをシェアできる。
一方400年前。「今月おすすめの演劇5選」なんてサイトは作れないわけで、ゲネプロの舞台写真を撒くこともできない。そんな中でどうやったら「面白そう」と世間に伝えられるか。「素敵だな」と思い出してもらえるか。それは詩だ。詩は人間の記憶に優しい。
谷川俊太郎さんが亡くなってしまった時、インターネット中に彼の詩、その一節が引用された。誰もが何かを覚えていた。私もだ。「まだ会ったことのないすべての人と会ってみたい話してみたい。あしたとあさってが一度にくるといい。ぼくはもどかしい」小学生の時に初めて合唱曲で聴いて以来、一日だって忘れたことはない。自分の言葉より、気持ちより、深く深く覚えている。まるで私自身のことみたいに。シェイクスピアも同じだ。彼の言葉は詩で、詩が物語になっている。だから人は、彼のことを忘れることができない。
400年残った物語は、きっと100年後にも残る。もしかしたら600年後「シェイクスピア1000年記念」と銘打った公演が、世界中で行われるかもしれない。その時人間は、どんな言葉で話しているんだろう。言葉はまだ、この世界に今と同じ形で存在するんだろうか。「書く」とか「読む」とか「喋る」って行為に、次の段階ってあるんだろうか。想像するとワクワクする。私は恐らく、その地平にたどり着くことはできないけれど。残念だけど。でもきっと、言葉がどんな形になっても、詩は残る。歌は残る。それの連なりが物語になる。大好きな詩を、物語にすること。それも俳優の仕事だと思うと、私は一層嬉しくなって、大きな声で舞台に立つ。
ダチとピクニックをした。全員肉類を買いすぎていて、贅沢だけど胃がきちかった。
配信: 幻冬舎Plus