スクーターを駆ってバリ島の「宗教裁判所」へ|原口侑子

スクーターを駆ってバリ島の「宗教裁判所」へ|原口侑子

TBSラジオ「安住紳一郎の日曜天国」出演で話題! 世界131ヵ国を裁判傍聴しながら旅した女性弁護士による、唯一無二の紀行集『ぶらり世界裁判放浪記』(小社刊)。実はそのあとも、彼女の旅は続いています。そこで「続」をつけて、新章開幕!

本日は「バリ編(前編)」をお届けします。

*   *   *

雲が灰いろに濁って垂れてきた。雨のにおいはまだしない。スクーターのハンドルを握ると海沿いの町チャングーを出た。

町の境目には小さな門がある。通り過ぎるときに沿道の木が重そうにミシミシとたわんだ。水田に背を向けて走り去るとデンパサールの渋滞へとまっしぐらだ。

バリをスクーターで走っていると、海のにおいと森のにおいの境目が分かる。

雨季のはじまりに三期作の水田は青さを減らし、街路にお香が立ちのぼる。スクーターに轢かれまくっているお供え物、赤茶色の建物と敷居、ちらりと見える神棚。

バリヒンドゥー教の雰囲気が色濃く残る街並みは、沿道にはみ出したバクソーミー屋台が放出する油っぽいにおいを吸い込んで、それでもインドネシアらしくごちゃごちゃと、バイクの立てる排気ガスで満ちている。

この日、私が向かったのは「宗教裁判所」なる場所であった。

バリは独特だ。固有の王がいる「バリ王国」は今も一応インドネシア政府のもとで生きつづけ、暮らしの中には村長・首長を頂点にした「バンジャール(Banjar)/集落」、その上にある「デサ(Desa)/村」というコミュニティが形成されている。

生活は固有のヒンドゥー教(バリ・ヒンドゥー)の宗教観と分かちがたく結びつけられていて、朝昼晩のお供えはもちろん、毎日どこかで祭祀が行われていてそれがみんなの日々のルーティーンの中にある。

喧嘩が起こると、村人は鐘(ククル)を打ち、そこに同じ集落の人々が集まる。ちょっとしたトラブルに発展しても、デサの長(村長)が収めることが多い。(ちなみにデサの長は最近では、長老ではなくネット社会についていける世代の中堅どころが選ばれることも多いとか。日本の村の公民館を彷彿とさせる。)

さらにはバリにはインドネシアの警察機構のほかに「ペチャラン」というコミュニティ警察もあって、祭祀のときは彼らが警護する。

というか「バリ人は『カルマ(因果)』を恐れているし、コミュニティが目を光らせているから、あまりトラブらないのだよ」ーー友人の「バリ人」が、自分たちの国民性ならぬ島民性を説明しようとしてくれる。本当にトラブルが少ないのか、表面化していないだけなのか、外モノの私の目にはうまく見えない。

「バリ人は罪もあまり犯さない。スクーターのヘルメットが取られたら『インドネシア人』に取られたと思いなさい」ーー別の「インドネシア人」の友人からも、なんともステレオタイプなコメントを聞いた。

さて、バリという一大観光地には、外国人だけでなく、バリ島以外のインドネシア人もたくさんやってくるし、たくさん住んでいる。バリ人はそんな「海外(バリ外)」出身の人々を「インドネシア人」と呼ぶ。「インドネシア人」たちはバリ人を「バリ人」と呼ぶ。

そんなバリ人とインドネシア人が結婚することがある。よくある。バリは固有の仕組みを持つ島といえど、イスラム教国インドネシアの一部でもあるから、イスラム教徒もたくさん住んでいる。そこでこちらでは、結婚するときに相手がイスラム教徒だと「宗教婚」となり、一般の「結婚」とは区別される。

一般の結婚と何が違うかというと、彼ら彼女らが離婚を申し立てるときには、普通の裁判所ではなくイスラム宗教裁判所に行く必要があるということだった。

塀に囲まれた小さな敷地に、市役所か公民館くらいの規模の建物があった。入っていくと年配の警備員さんがちょっと不審そうに、しかしにこにこと笑いながら「何しにきたのかい?」と聞いた。

通されたカウンターでは、黒いムスリム帽をかぶった受付のお兄さんがたいそう丁寧に対応してくれる。

「公開されている裁判を見たいと思いまして」と私が言うと彼は微笑みながら答えた。物腰が柔らかい。

「離婚の事件は非公開とされておりまして、ご覧いただけるのは財産分与とか相続のケースになりますね。今日は離婚事件しかないですが、明日の午前中に財産分与があります。明日またいらっしゃるのが良いかと」

「なるほど。では明日また来ます」

「はい。念のため上司に問い合わせます」

嫌な予感がした。上司がやって来て尋問されるのではないかという気がした。待っていると先ほどの受付のお兄さんが戻って来て、

「明日、傍聴するためには公式のレターが必要だということです。上司いわく」と言った。尋問はされなかったし上司も現れなかったが、私の傍聴には何の「公式さ」もなかった。公式の傍聴とは何だろう。

「すみません私はどうもできません、ご理解ください」、物腰の柔らかい受付のお兄さんは申し訳なさそうに言った。

*   *   *

(バリ編・後編につづく)

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