まずは土作り?? どないしたらええねん|仲野徹

まずは土作り?? どないしたらええねん|仲野徹

生命科学者・大阪大学名誉教授の仲野徹さんが、家庭菜園のワクワクを綴る新連載エッセイの第2回。これがなくては始まらない、「土」のお話です。

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まず必要なものは、地面、土

pHメーカーで土壌のpHを測定中

家庭菜園を始めるにあたり、必要なものはいくつもある。あたりまえながら、なかでも最重要なのは地面、土地だ。幸いなことに、我が家の場合は十分にあった。都会、というほどではないけれど、そこそこ賑やかな商店街のすぐ近くなのだが、60坪もの「農地」を所有している。ただし、わたしではなくて、妻が、ではあるが。その土地で、過去20年くらいの間、同居していた母親が細々と菜園をしていた。なぜそんな土地、言ってみれば遊休地である、があるのかの話から始めたい。

 

いまから30年近く前の話だ。何軒かの借家が建っていた自宅裏の土地が、相続かなにかの事情で売りに出された。どうしてそんなことになっていたのかわからないが、幅1メートルほどの私道からしか出入りができないような土地だった。なにかを建てることすらできないのだから、買ったところで使い途はなかろう。しかし、もし訳のわからない人に買われて、おかしな因縁をつけられたらたまらない。それならと持ち主にお願いして、かなり格安でお譲りいただいた。と書くと、わたしが買ったみたいに聞こえるが、貯金がなかったから、代わって妻に買ってもらった。

そんな事情だったので使うあてがあるわけでなく、当時60歳くらいだった母親が畑を始めることになった。これは年寄りの健康維持にものすごく役だった。長い年月、家が建っていた場所である。ふつうに考えたら、土の状態が悪すぎてどうしようもないような気がする。けれど、幸いにも、そこそこの農作物は育っていた。

『大地の五億年』(藤井一至著、山と渓谷社)という本がある。「土は生命のゆりかごだ!」文庫化の時に頼まれて、帯文にそう書いた。帯文の謝金をしっかりいただいているので、押し売り気味に誉めたりするとCOI(利益相反)に抵触するかもしらんが[順小1]、本当に面白い本である。土の質など、ずっとそこにあるままの状態でさして変わらないと思っていたが、まったく違う。元々の地域によって異なるだけでなく、状況によって生きもののように変化していくものなのだ。

母親は、自分が土壌の改良をしたと自慢していたけれど、それほど堆肥をすき込んだりしていた訳でもないし、怪しいところである。淀川が近くにあるので、大昔には川の土がけっこう流れ込んできていて、元来そこそこ土がよかったのではないかと推測している。ようしらんけど。

「新しいことを学ぶ」とはどういうことか

なにか新しいことを始めるとき、あるいは学び始めるとき、それに関係するものごとを覚えなければならない。この作業を楽しいと思えるかどうかが、うまく学べるかどうかの大きな分かれ道である。言うまでもなく、何かを学び始めるというのは、けっしてたやすいことではない。最初は、関係する言葉を根気よくひとつずつ覚え、その言葉が意味することをしっかりと理解していかねばならない。

今井むつみの『学びとは何か――〈探究人〉になるために』(岩波新書)は、タイトルどおり、なにかを学ぶというのはどういうことなのかをわかりやすく説いた好著である。この本のキーワードは「スキーマ」だ。「認知的枠組み」や「構成概念」などといった訳語があるが、[順小2]なかなか説明するのが難しい言葉である。昔取った杵柄じゃないけれど、現役時代に教えていた病理学――どのようにして病気が起きるか――にでてくる病態のひとつ、炎症を例にとってみよう。

炎症を学ぶとき、まず、その意味するところを覚えなければならない。そこには3つの重要事項がある。

感染や組織が損傷を受けたときに生じる反応である。

血液から生体防御に関係する分子が炎症部位にもたらされる。

原因となったものが取り除かれる。

これでおおまかなことはわかる。しかし、こんなお題目をいくら暗唱しても炎症という現象をイメージすることは難しい。もっと細かく炎症の実際を勉強あるいは観察でもしないと、しっかりと腹落ちした理解はできないのだ。スキーマというのは、さまざまな経験によって初めて身につけることができる、全体を理解するための枠組みだ。とはいえ、全体像を知らずに断片から全体像を組み上げるというのは、なかなかに難しい。

『基礎から鍛える量子力学』(日本能率協会マネジメントセンター)という本を読んだ。「基本の数理から現実の物理まで一歩一歩」というサブタイトルに、「初学の編集者がわかるまで書き直した」というキャプションまでついている。たしかに、ていねいに説明されているのだが、内容は相当に難しかった。読み進めていくと、わからないところが出てくる。そんなとき、適当なところまで戻ってまた読み直す。水前寺清子じゃないが「三歩進んで二歩さがる」を繰り返して読み切った。

この本、前半は微分やら積分やら行列やらというように、内容は完全に数学である。それも、必ずしも関連付いている訳ではなくて、いったいなんのためにそんなことを学んでいかねばならないかがわからない。しかし、最後の方になって、そういった数学から導かれた内容――ハイゼンベルクの行列式とかシュレディンガーの波動方程式とか――で、量子現象を説明できることが理解できる。その段階になって来し方を振り返ると、ああそういうことだったのかと一気に視野が開けて、むっちゃうれしかった。これは、苦心の末にスキーマが身についたからこそだ。スキーマは歩いてこない、だから歩いていくのである。これも水前寺清子の「三百六十五歩のマーチ」からですけど、古すぎますかね。スンマセン。

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