最後の沖縄旅行。親はそっとトイレで泣いた
――症状が改善し、退院してからのことを教えてください。
高木 放射線治療で症状が落ち着いた場合、再び症状が出てくるまでの時期を「ハネムーン期」と言うそうです。この間に、いい思い出作りをしてくださいという意味です。この時期の優衣奈がそうでした。
退院後、優衣奈は七夕の短冊に「沖縄に旅行にいこうね♪」と書いていました。私たちの毎年の家族旅行先は、沖縄が定番でした。飛行機の気圧変化が脳圧におよぼす影響や、症状が再燃する心配もあったのですが、妻と話し合って「これが本当に最後の旅行になるかもしれないから」と決行することにしました。
優衣奈はプールに入って泳ぐこともできて、本当に楽しんでいる様子でした。ただ、私たち夫婦にとっては最後の思い出だと覚悟しての旅行です。娘の前では笑顔を絶やさずに、悲しみの波が襲ってきたときはトイレで泣きました。
――旅行から帰宅してから、検査で再燃が見つかったのですか。
高木 はい。MRI写真を見ると、優衣奈の頭の中は、まるで散弾銃で撃たれたように腫瘍が飛び散っていました。そして先生から、今後の治療方針はないと伝えられました。心臓が止まったときは蘇生や心臓マッサージはするのか、人口呼吸器はつけるのか…。そういった最期の瞬間のことを決めるように伝えられたのですが、娘はまだ普通に歩けて、しっかり話もできていました。それなのにそんな残こくな決断を今どうして親がしなければいけないのかと、とてもつらい気持ちになりました。
「だって、パパとママの子だから」と…
――症状が再燃してからは、在宅医療を選択されたそうです。
高木 窓際の日当たりのいいところにベッドを置いて、訪問医療と訪問看護で定期的に医師と看護師に来ていただいて、療養していました。優衣奈はハネムーン期前の最初の発症のときと同じ症状がどんどん表れて進行して、体が動きづらくなり、寝たきりになりました。
家の隣には大学があるのですが、ガラス窓1枚をへだてて、楽しそうな学生さんたちの笑い声が聞こえてきていました。ここに命と向き合っている子どもがいるなんてだれも想像していないし、外には普通の時間が流れている。そう思うと、世の中に対して大きな孤独を感じたことを覚えています。妻も、今の状況を聞かれるのが怖いからと、買い物でお友だちなどに会わないように遠いスーパーに出向くようになりました。
――優衣奈さんは、病気をどのようにとらえていたのでしょうか。
高木 体が動かなくなったり、まひした状態になって、普通ではないと感じていたと思います。優衣奈が不安と闘っているときには、「絶対にパパとママが治すから大丈夫だよ」と繰り返してきました。
優衣奈は、療養中にまったくぐちを言いませんでした。看護師さんが感心して、「なんでそんなに頑張れるの」と聞いたら「だって、パパとママの子だから」と言っていたそうです。それを看護師さんから聞いたときはグッと心に来てしまって…。親として立派なことをしていたわけじゃないんですけど、本当に、最高のほめ言葉を優衣奈にもらったと今でも思っています。
配信: たまひよONLINE