元日本テレビ記者・鈴木美穂、24歳で違和感を覚えてから2カ月後、ステージⅢの乳がんと診断「私の人生、終わった・・・」

元日本テレビ記者・鈴木美穂、24歳で違和感を覚えてから2カ月後、ステージⅢの乳がんと診断「私の人生、終わった・・・」

医師から「がんになったからって、幸せになることをあきらめなくていいんだよ」と言われて涙が

最終的に、鈴木さんが治療を受けると決めたのは、最初の検査で乳がんと告げられた病院です。

――7つの病院で診察を受けて、その中から1つを選んだ理由を教えてください。

美穂 その病院で医師(のちの主治医)に「あと何カ月生きられるのでしょうか。いつか赤ちゃんを産むことは難しいのでしょうか」と質問したんです。すると医師は、「ちょっと待ってね」と言って、パネルを持ってきて「これ見て!」と言うんです。パネルには、赤ちゃんを抱っこするお母さんの写真がたくさん貼られていました。「このお母さんたちは、僕が診た若くして乳がんになった患者さんたちなんだよ。治療して、結婚をして、赤ちゃんを授かっているんだよ。僕は、患者さんに赤ちゃんが生まれたら、一緒に来てもらって写真を撮るのが好きなんだ。鈴木さんも『あと何カ月生きられるのか』なんて言わないで! きちんと治療して、結婚して、子どもを産んで会いに来てよ。がんになったからって、幸せになることをあきらめなくていいんだよ」と言われて、涙が止まりませんでした。

ほかの医療機関では「2年後があるかどうか・・・」など厳しいことばかり言われていたので。この医師に託そうと思いました。

乗り越えられない試練はない、と言い聞かせながら

――乳がんの治療について教えてください。

美穂 右乳房の全切除手術を行ったのは、告知を受けてから19日後です。手術は3時間ほどでした。手術中にリンパ節の転移を調べる検査を行ったところ、複数の転移が見つかり、右胸と同時にリンパ節も取りました。
麻酔から目覚めると、家族がいて「美穂、美穂」と優しく呼びかけてくれて「私、生きてるんだ」と思いました。

手術から2週間が過ぎて、抗がん剤の投与も始まりました。2種類の抗がん剤を3カ月ずつ投与するのですが、本当につらいんです。
髪の毛は抜けて、強烈なはき気に襲われて、心身ともに衰弱していきました。
そのとき心の中で何度も何度も「神様は、乗り越えられない試練は与えない」と自分に言い聞かせていました。この言葉は、よく母に言われていた言葉です。

小学5年生のとき、父の仕事の都合で、突然アメリカで暮らすことになったとき、私は英語がまったく話せずに、言葉の壁に苦しみました。勉強にもついていけないし、友だちもいなくてずっと孤独でした。そのときも、母から言われたこの言葉に救われました。
今の私があるのは、家族の支えがあったからです。

お話・写真提供/鈴木美穂さん 取材・文/麻生珠恵 たまひよONLINE編集部

乳がんは、9人に1人がなる時代といわれていて30代から増え始めます。鈴木さんは「違和感を覚えたときに、すぐに病院に行かなかったことを今でも後悔している。私と同じように後悔をする人を減らしたい」と話します。

インタビュー2回目は、結婚と妊娠について聞きます。

「 #たまひよ家族を考える 」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。

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