ある日突然、難治性小児がん「小児脳幹部グリオーマ(DIPG)」と診断され、わずか10カ月後に11歳で亡くなった優衣奈(ゆいな)さん。父親の高木伸幸さんは、そのときの悲しい経験を踏まえて、未来の子どもたちのためにと小児がん撲滅をめざし、患者や家族を支える活動を11年間にわたり続けてきました。
インタビュー後編となる今回は、小児がんをめぐる日本の問題や、これまでの活動について高木さんに話を聞きました。
「なぜ治せないのか」から始まった、小児がん撲滅活動
――長女の優衣奈さんが余命1~2年とされる「小児脳幹部グリオーマ」だと診断され、闘病の末に亡くなった直後、小児がんの支援団体を設立しました。どんな思いがあったのでしょうか。
高木さん(以下敬称略) 優衣奈の闘病中から、「なぜ治せないのか?」をはじめとして、どうにかできないのかという思いがありました。小児脳腫瘍の研究はまったく進められていないような状態で、研究者も専門医も少ない状況です。また、子どもの生死がかかっていて病院から離れられないのに、入院していた当時は役所や保健所に行って、医療費を助成してもらうための煩雑な申請作業をしなければいけませんでした。
それに、娘にはあきらかに障害が見られるのに、すみやかに障害者手帳が交付されない問題もありました。障害者認定を受けると、在宅医療を行う上でのいろいろなサービスが受けられるのですが、症状が出て3~6カ月くらい“症状が固定”している状態でないと、障害者認定できないと断られてしまうのです。こうしたことから、問題を訴える街頭署名活動を始めました。
――最初は1人で始めたのですか。
高木 はい。最初は私1人で始めて、問題を訴えるための署名簿も、全部自分で書いていました。それで地元の国会議員のところに相談に行ったのですが、そのときの対応で「患者会でもないし、たった1人の訴えで変えられるものではない」ということがわかりました。その後、「小児脳幹部グリオーマの会」という患者会の共感と協力を得ることができて、署名プロジェクトとして本格的な活動を始めました。
小児がん患者家族として、動かずにはいられなかった
――たった1人で始めた活動が、少しずつ協力者を得て広がっていったのですね。
高木 はい、本当にいろいろな方々が協力してくださり、およそ3年間で全国から約2万3000筆もの署名を集めることができました。
協力者の1人が、たった1人のお孫さんを同じ病気で亡くされた、歌手の菅原洋一さんです。「自分にできることがあれば」とご協力いただき、2016年にはチャリティーコンサートを開催しました。そのときに、署名を元日本医師会副会長の羽生田たかし参議院議員に提出。翌月に当時の厚生労働大臣の塩崎恭久議員に直接お会いして、署名簿と要望書を提出することができました。要望書の内容は、次の6つでした。
1:難治性小児脳腫瘍の研究体制の確立
2:小児脳幹部グリオーマの治療研究の推進
3:ドラッグラグ(海外では使える薬の承認が遅れて、長い期間がかかる問題)の解消
4:小児慢性特定疾病患制度の周知の徹底、申請簡素化など
5:患児、親、きょうだいへの精神的ケアなどQOL(生活の質)向上のための対策推進
6:末期小児がん患者に対する、障害者認定の迅速化
――悲しみの中で、前向きに行動されたのは本当にすごいことだと思います。
高木 小児がんというのは、かつての私にとってはテレビの向こう側の話でした。自分の子どもが小児がんと診断されるなんて思ってもいなかったことです。でも、実際に小児がんの子をもつ親という当事者になって初めて、「小児医療って、こんなに社会からおいていかれているんだ」ということを目の当たりにしたんです。世の中に知ってもらって、それによって政治が動いて、官僚が動き、制度が変わっていきます。自分が悔しく思った経験を、未来の子どもたちのためにいかしていきたいと考えました。
配信: たまひよONLINE