まだ温かな空気が残っている午後三時。
病室の狭い個人スペースにママ友三人と、子どもたち三人がお見舞いに来てくれた。
ママたちは並んだパイプ椅子に座り、子どもたちは側でパックンチョを食べている。
キリコ 「うわー、ごめんね、迷惑かけて。てかさ、子連れで出かけるのに着替えを持っていかないって、いかに普段、面倒を見てないかってことだよね。呆れるわ。しかもアンパンマンのトレーナーと黄色いパンツってさ、昨日の格好だし。風呂入れてないってことじゃん。呆れるわー、呆れるわー、呆れるわー」
ママたちから「公園の小川事件」を聞き、私は心底呆れている。
文乃 「いやいや、キリちゃんのパパはやってくれてる方だって」
歩 「うん、うん」
恵美 「そうだよー。うちのパパなんてなーんにもやらないくせに、文句ばっかり言うし。私の小言は聞きたくないとかいうのに、仕事の愚痴は毎日するし」
キリコ 「え、恵美ちゃんの旦那さん、仕事の愚痴とかいうんだ…?」
文乃 「マジか、うちはぜんっぜん言わないな」
歩 「うちも」
キリコ 「うちもだよ」
歩 「じゃあ、どこで発散してるんだろうね。キャバクラ?」
文乃 「外の女?」
歩 「あはは、うちはそんな度胸ない」
恵美 「うちのパパは大きな子供みたいなもんだから。ちゃんと聞いてあげないと拗ねちゃうのよ」
子供たち「おそと行きたい~!」
お菓子を食べ終えた子どもたちがベッドから飛び降り、病室内を走り回り始める。
文乃 「こらこら!」
歩 「ここって確か屋上庭園があったよね」
キリコ 「そうなんだ」
恵美 「じゃあ、うるさくするとあれだし、連れてっちゃおうか」
文乃 「そうだね。じゃあ、キリちゃんまた来るね」
キリコ 「ありがとう!」
みんなが病室を出て行き、一人になった私はまだ見慣れない天井を見る。
(恵美ちゃんの旦那さん、愚痴るんだなぁ。でもまぁ…考えてみたら、そうだよね。そりゃ、夫にだって愚痴はあるはずだよね。でもうちのパパは何にも言わないな。なんでだろう。昔はいろいろ話してくれてた気がする。恵美ちゃんと私の違いは…なんだろう。)
なんだかモヤモヤしながらも、夫の話をまったく聞いていなかった自分に気づいて、胸がチクッとしなくもない。
(その後、どうにかやれてるかな?)
ふとスマホを見ると、午前中に夫から着信があったようだ。
キリコ 「保育園のことかな…」
ここは四人部屋ではあるけれど、実際は私と向かいのベッドの二人しかいない。
私は、もう一人の同室の人が面会でオープンルームに出て行ったのを見て、夫に電話を折り返した。
(もう一人の同室人とは「電話はOKにしよう」と話してはあるのだが、一応、気を使っている)
キリコ 「もしもし、電話に気づかなかった」
満 「………おう」
夫の声が予想以上に暗かったので、私はなんだか不安になる。
キリコ 「ん? …どうかした? 何かあった?」
満 「………熱が出た」
キリコ 「え! 何度? 九度超え? 吐いてない? ほかの症状は?」
満 「いや…熱以外は特に。あー、寒気はある。熱は37.5度」
キリコ 「…なーんだ、じゃあ、全然元気でしょ、奏ちゃん。奏ちゃんは八度台だって遊んでるんだから大丈夫(だよ)」
満 「いや、奏太じゃなくて、俺ね」
キリコ 「………………は?」
心配して損した。
キリコ 「あのさ、大人の37.5度なんて微熱でしょ。いや、むしろ平熱の域だよ。我慢しろよって話だよ」
満 「………………市役所、行ってきたよ」
キリコ 「あ、どうだった?」
満 「認可は一時すら難しいって」
キリコ 「えー…」
満 「認可外なら、とりあえず一時保育が可能みたいなんだ。一覧が載った紙を貰ったから写真撮って、メッセで送るからさ」
キリコ 「うーん、送られても。私も認可外保育園のことはよく知らないしなぁ」
満 「でもとりあえず見てみてよ。選定はキリに任せるから」
キリコ 「…任せるって。あのさ、私いま入院してるんですけど?」
満 「悪いけどいまちょっと頭が回らない。ああ、…奏太が騒いでるから、じゃあちょっと、よろしく!」
夫は一方的に話しを終わらせると、電話を切ってしまった。
キリコ 「…なんなの。入院しても丸投げされるの、私は」
(頭が回らないって37.5 度なのに!? 私が39度超えの高熱を出して辛くて死にそうだった時、ほとんど変わらず仕事してたくせに! 幼稚園はプレに行ってないと入れないかもって散々話しても、幼稚園選びなんて一緒にしてくれなかったくせに! 私にぜーんぶ丸投げしたくせに! さっきまでパパの話をもう少し聞かなきゃとか思ってたけど、やっぱ取り消すわ!その前に私の話を聞けっての!)
苛立ちが止まらない私の目が、テレビ台に置かれているレモンマドレーヌを捉える。
(そうだった! まだ食べてなかった!)
私は救われたような気持ちになり、マドレーヌへと手を伸ばす。
キリコ 「もう少し、もう少し、神スイーツまでもう少し」
マドレーヌの袋に手が触れた瞬間――。
キリコ 「…いぃぃぃっ!」
腰に激痛が走って、息が止まりそうになる。私は震える手でナースコールを押した。
――プー、プー、プー
呼び出し音が鳴り、駆け付けた看護師が個人スペースのカーテンを開ける。
看護師 「円田さん、どうしました? 痛みますか?」
キリコ 「…あ、あの」
看護師 「先生、呼びますか?」
キリコ 「か、神スイーツ…、取ってください」
看護師 「え?」
キリコ 「あ、そうじゃなくて、マ、マドレーヌ…」
看護師 「え、あー、これ。そんなに痛くて食べられるの?」
キリコ 「は、はい…」
看護師 「そう」
看護師は不思議そうな表情を見せながら、私にマドレーヌを渡し去っていく。
私は荒い息を整えながらマドレーヌの袋を開け、貝殻型のスイーツを口にする。爽やかなレモンの香りと優しい甘さが広がる。
(マドレーヌってわざわざ買ったことなかったけど、なんだか懐かしい味がするんだなぁ。奏太にも食べさせてあげたい)
キリコ 「ふぅ…。うん、いいこと起これ。いいこと起これ……」
さっきまでのイライラが神スイーツのおかげで中和されていくのを感じる。
単純すぎる?いいや、単純でもいいじゃない。
私はマドレーヌの甘さに心底感謝した。