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公開 2017年07月04日  

「今日こそ、ちゃんと話そう」二人ともそう思っていたのに…/連続小説 第20話

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少し時間は遡る。朝に訪ねてきた早智が帰り、部屋でぼんやりしていたキリコ。奏太は今日、はじめての保育園だ。不安な気持ちでいると、満から電話がかかってきた。


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朝一番に来た早智が帰ってからは、マドレーヌとフィナンシェを食べて、ずっと窓の外を見て奏太のことばかり考えていた。

奏太はよく笑ってはしゃぐ子だけど、場所見知りや人見知りが赤ちゃんの頃からある。

託児付きの美容室に行った時なんかは、一時間ほどのカットの最中、奏太は託児スペースでずっと「ママ!」と叫んで泣いていた。

その時は自分に落ち着ける場所はないのかよ、とうんざりしたけど、今は奏太が心配で仕方ない。

早智が帰った直後、夫に「そういえばお迎えは何時?」とメッセを送っていた。

何度スマホを見ても返事はなく、昼過ぎにやっと「17時」とだけ返信が来た。

本当に長い一日だった。

(やっと15時だ…。あと二時間、がんばれ奏太…)

そんなことを思っていたら夫から着信があり、私は同室の人に「すみません」と一声かけてから電話に出た。

奏ちゃんに何かあったのかと不安になったけど、夫の口から出た言葉は「延長できないか聞いてくれないか」というものだった。

予想外なお願いではあったけど、夫の話し方から切羽詰まった状況が伝わってきて、私は仕方なく託児所に電話したのだった。

保育士 「延長ですか…。基本的に園自体が17時までなんです。ですので、17時以降の保育を利用する方は事前の相談をお願いしてるんです」

キリコ 「そうなんですね、すみません…。もう一度、夫に伝えてまた電話しますね。私は…入院中でお迎えに行けないので」

保育士 「そうだったんですね」

キリコ 「あの…奏太はどうですか」

保育士 「んー、奏太くんは場所見知りはある方ですか?」

キリコ 「あ、はい!」

保育士 「あー、やっぱりそうなんですね。パパが園を出てからずっと泣いてしまっていて」

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不安が的中し、ドクンと心臓が苦しくなる。

保育士 「電車がすき、って聞いたのでいろいろ電車のオモチャとか絵本とか見せてみたんですけど…すみません」

キリコ 「…いえいえ! …そうですか」

保育士 「はい…。お昼ご飯もほとんど食べられなくて、今もおやつの時間なんですけど、手をつけずにちょっと泣いちゃってる感じです」

(奏太………)

部屋の隅っこで泣いている奏太が目に浮かんで涙がこみ上げてくる。

保育士 「ですので、もし延長になって夜ごはんも園で食べることになった場合、ちゃんと食べてくれるかどうか…」

(お腹、空いてるだろうな…)

キリコ 「すみません…17時に行けるか夫に電話してみます」

保育士 「はい、お願いします」

電話が切れると、私は目に溜まった涙を拭いて夫に電話を掛ける。

(…出ない。高速に乗るって言ってたけど、どこに行ったんだろう)

何度掛けても通話にならず、「車降りたら電話して」とメッセを送ってスマホを枕元に置いた。

(いつもはお昼ご飯をお代わりするくらい食べることが大好きなのに…)

奏太のことを思うと心配で居ても立っても居られなくなり、ママ友グループにメッセを送るとみんなから返信が届いた。

キリコ 「実は今日、夫が奏太を託児所に預けたの。17時にお迎え予定なんだけど、仕事で遅れそうっぽくてさ。延長できないか託児所に電話したら、奏太がずっと泣いてて、お昼ご飯もおやつも食べてないって。あー、心配すぎる。なんで私骨折なんかしちゃったんだろう…。」

   「奏ちゃ~ん(涙)」

恵美  「そんなこと聞いたら誰だって心配になるよ。キリちゃんは何も悪くないよ!自分を責めないでよ!」

   「どこの託児所に預けたの?」

キリコ 「ともだちっこっていうところ。商店街の中にあるの。ほら、最近できて混んでるコッペパン専門店の横の古びた洋品店があるじゃん? そこの二階」

   「あ~! あそこか!」

恵美  「ともだちっこ! 友達も預けてたことあったよ。先生がみんな優しくて、公園にも連れてってくれるから良かったって言ってた」

(口コミのポジティブな書き込みは本当らしい…)

二人に話を聞いてもらって、少し気持ちが落ち着いたころ、スマホの時計は16時を表示していた。

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折り返しの電話がない夫に再度掛けてみると、今度はすぐに通話になった。

   「どう?延長できた?」

キリコ 「それが…五時以降の預かりは原則、事前予約が必要みたいで」

   「悪い、それでも延長可能か聞いてみてくれない? 今、トラブル処理が終わったから、急いで向かうよ。道は空いてたし、一時間後には着けると思う」

キリコ 「一時間後ってことは五時ちょっと過ぎ?」

   「そうだな…。遅くとも五時半までには行けるんじゃないかな」

キリコ 「………」

   「…キリ? もしもし?」

キリコ 「…先生から聞いたんだけど、奏ちゃんずっと泣いてて、お昼ご飯もおやつも食べてないんだって」

   「………」

キリコ 「もし延長になって夜ごはんも園で食べるなら、ちゃんと食べてくれるかどうかって言ってた………」

   「そうか…。遅くならないようにすぐに向かうから。じゃあ、今から行く」

(仕事が忙しいのは分かる。でも奏ちゃんを迎えに行けるのはパパだけなんだよ?)

そう言いたくても言葉を飲み込んで電話を切った。

今はとにかく一秒でも早く奏太を迎えに行ってほしい。

話している最中に新たなメッセが届いていた。

文乃  「乗り遅れた~! 奏ちゃん、今日から一時保育だったんだね。どう? 旦那さん、お迎え間に合いそう?」

キリコ 「間に合わないみたい。仕事が大変なのは頭では理解できるけど…、なんか、私の方が不安で不安で。こういう時、実家とか義実家が近ければいいのになぁ、ってほんと思う」

文乃  「ともだちっこって身内しかお迎えNGなの?」

恵美  「ううん、大丈夫みたいだよ! 友達に聞いた。ハル子を連れてになっちゃうけど、奏ちゃんのお迎え行くよ~!」

   「お、私も同じこと考えてた」

文乃 「今日、夫が休みでリョウのこと見ててくれるから、私一人でお迎えに行けま~す♪ 身軽よ♪」

   「旦那さん、お休みなんだ。いいなぁ~」

恵美  「ほんと! ありがとう。一応、身分証が必要みたい。キリちゃん、ともだちっこに文乃ちゃんが迎えに行くって電話してみなよ」

次々に届くメッセを見て、目頭が熱くなる。

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(みんな…)

キリコ 「…本当にいいの? ありがとう! 退院したらぜったい恩返しする」

   「キリの恩返し(笑)」

キリコ 「でもパパが間に合うかもしれないから、もしダメそうならまた連絡させて」

文乃  「オッケー♪」

三人の優しさが本当に嬉しかった。

ママ友が自分と同じ立場だったら、自分も同じことをする。

それくらい「育児」を通じて、私たちは強い絆で結ばれたんだと思う。

助け合って、子どもを育ててる。

身内が近くにいなくて、大変なこともあるけど、こういう人たちに出会えたことは私にとって財産だ。

文乃ちゃんにお迎えを頼めば奏太は17時に帰ることができる。

だけど奏太はきっとパパの迎えを待ってる。その気持ちを裏切りたくない。

朝から頑張ってパパを待ったのだから、ちゃんとパパに迎えに行ってほしい。

託児所に連れて行って去ってしまったパパを嫌いになってほしくない。

「迎えに来たよ」って抱きしめれば、奏太だってきっと泣き止んでくれると思いたい。


だけど――夫は間に合わなかった。


文乃ちゃんに連れられて病室に来た奏太は瞼を真っ赤に腫らし、ほっぺたには涙の線が残っていた。

キリコ 「奏ちゃん……」

奏太  「………」

奏太は私に会っても笑顔を見せてくれず、文乃ちゃんが買ってきてくれた蒸しパンとリンゴジュースを一気にお腹に入れ、私のベッドに入り、すぐに眠ってしまった。

文乃  「じゃあ、帰るね」

キリコ 「うん…本当にありがとう」

私は堪えていた涙を流しながら、奏太の柔らかい髪を撫でた。

(ごめんね…。ママが入院なんかしたから…)


――それから30分後の18時半ごろ。


急いで来たと思われる息の荒い夫が病室にきて、パイプ椅子に腰を下ろした。

夫は奏太を迎えに行けなかったことをどう思ってるんだろう。

私は夫の言葉を待って黙っていた。

   「奏太は…まだ起きてないか」

キリコ 「……」

   「文乃さんは?帰ったの?」

キリコ 「…うん」

   「娘も一緒に来たの?」

キリコ 「…ううん」

   「娘は誰かに預けてきてくれたの?」

キリコ 「……」

   「聞いてる?」

キリコ 「聞いてるよ。…聞いてる。旦那さんが今日休みなんだって」

   「そうなんだ。旦那さん平日休みなのか」

キリコ 「あのさ。文乃ちゃんちのことはいいよ。ほかにいうことないの?」

   「…迷惑かけてごめん」

キリコ 「迷惑とかそういうんじゃなくてさ、奏太のこと心配しない? 普通」

   「心配してるよ!でも、状況はキリから聞いてたし」

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キリコ 「…奏ちゃん、ここに来て一回も笑顔見せてくれなかったよ。疲れた顔して、ジュース一気飲みして、蒸しパンを全部食べて、『うん』とか『ううん』しか答えなくて」

   「………」

キリコ 「すごく寂しい思いをしたんだと思う。もともとは、私が入院したことが悪いよ。でもさ、今日パパさ、『任せて』って言ったよね?」

   「そうだけど…トラブルがあって、俺しか対応できない状態だったんだよ。キリにちゃんと話してなかったけど、今、会社が」

キリコ 「仕事が大変なのはわかる。でもさ、奏太のお迎えに行けるのはパパしかいないよね? 会社には他にもスタッフがいるよね? 奏ちゃんはさ、パパのお迎えを待ってたんだよ、ずっと」

ダメだ、言い過ぎている。でも、心に溜まっていた言葉が溢れ出して止められない。

キリコ 「…私はさ、こんな体じゃなければ全速力で奏ちゃんを迎えに行きたかった。心配で心配で…。自分に腹が立って仕方なかったよ。なのに…」

   「俺だって飛んで迎えに行きたかったよ。でも…どうしても替えがきかない仕事もあるんだよ」

キリコ 「奏ちゃんにとっては、パパだって替えがきかないよ」

   「ちょっと聞けよ、キリ」

キリコ 「他にパパはいないんだよ!? 違う!?」

   「………」

こみ上げてくる涙を必死で堪えて、夫から視線を逸らすと、夫が絞り出したような声を出す。

   「決めたら決めたでこれかよ…」

キリコ 「……何それ、どういう意味?」

   「どうせ俺には…分からないんだろ? 子育てのことはパパには分からないって前に言っただろ、キリ。じゃあ聞くけど、キリに俺の気持ちは分かるのか?」

キリコ 「…分からないよ。奏ちゃんを後回しにできるパパの気持ちなんて分かんない」

   「そうじゃなくて…もういい」

夫は諦めたように私から顔を背けると、バッグからコンビニの袋を取り出し、テレビ台の上に置いた。

   「………」

そして眠っている奏太を抱き上げると、病室を出て行ってしまった。

一人になった途端、堪えきれなくなった涙があふれ出て、こめかみを伝い、耳の方に落ちる。

これからのことをちゃんと話そうと思っていたのに。

自分でも的外れだと思うようなことを一方的に言ってしまった。

どうしてこうなっちゃうんだろう。

私たち夫婦は、どうなるんだろう。

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