再び奏太が指さす方を見ると、男性客のパーカーや持っているタオル、キーホルダーに同じ黒い羊のイラストが描かれている。
そして「Black Sheep」のロゴ。ん? これはもしや…。
スマホを取り出し、検索してみるとロックバンド「Black Sheep」が今日の14時からさいたまスーパーアリーナでコンサートじゃないか! ついてない…。
奏太 「ママ、ママ~!」
こんな風の強い日に何の特徴もないラーメンを食べるために、子連れで並ばないといけないなんて…。ハードルが高かった。でもだからと言って、食べずに帰るのも…。
奏太 「ママ、ママ~!」
キリコ 「しー。もう少しだから頑張って。あとね、1、2、3、4、5番目」
奏太 「がんばれない! うんち漏れちゃう」
キリコ 「……え?」
奏太 「うんち! でちゃうよ!」
他の客の視線がさらに痛い。どうしよう。ぜったいに順番を開けて待っていてくれる雰囲気じゃないし…。また並ぶのもきついし…。うんちは待ったなし…。
店員 「次のお客様どうぞ」
ちょうどその時、店から店員が顔を出した。
キリコ 「あの…! ちょっとトイレに」
奏太 「出ちゃう!!」
奏太の切羽詰まった声を聞くと同時に、私は奏太を抱き上げ、向かいの「ロイボ」に滑り込んだ。
店員 「いらっしゃいませ」
高級ファミレス内に羊マークはいなかった。
急いで席に荷物を置き、トイレに向かう。
奏太 「すっきりした~! ハンバーグたべよ、ママ」
キリコ 「…そうだね」
うんちは間に合ったけどトイレだけ借りて出て行くわけにもいかず、私は窓から見える「マウンテンヌードル」に視線を送る。
一人だったら出来たことも、今は難しいことになってしまった。
そんなこと奏太を産んだ時から分かってたことだけど…。はぁ…。
もう仕方ない。帰りにDVDでも借りに行って、奏太が見てる間にどうにかやるしかない。
パソコンを開くといたずらしたがるから、手書きかスマホか…。
そんなことをぼんやり考えながら川口駅に戻り、レンタルショップに向かおうと自転車を走らせていると、いつの間にか奏太が眠ってしまっていた。――マジか!
いろいろあったけど、結果オーライである。
私は家に着くと奏太を布団に寝かせ、執筆を開始した。
2時間ほど経ったと思う。私はパソコンの前で頭を抱えていた。やっぱり書けない。
だってラーメンの味も店内も見てないんだもの。帰ってきてから狂ったようにネット検索して、いくつかの情報は得たけど…。
奏太 「ごほっ…ごっ…」
寝室から奏太の声が聞こえてきて頭を上げる。わー、終わってないのに起きちゃう。どうしよう。
奏太 「げほっ! げほげほげほげほっ! げほっ! 」
キリコ 「…奏ちゃん?」
奏太 「げほっ! …うわーん! …うわあーん!」
急いで奏太の元に行くと、奏太は真っ赤な顔をして泣いていた。
キリコ 「どうしたの?」
奏太を抱きしめると、奏太の体が熱い。…風邪ひいてたっけ? いや、鼻水も出てないし、咳だって出てなかったのに。あれ…?
ぐるぐる頭の中で考えながら体温計を奏太のわきの下に挟むと、ピピピという音と共に「39.3℃」と表示されている。
キリコ 「…え」
奏太 「げほっ…! げほげほげほげほっ!」
――それから私は咳が止まらずぐったりしている奏太をベビーカーに乗せ、ブランケットを掛け、風よけのためにカバーをして小児科に向かった。
風邪薬を飲ませて、温かくして眠らせよう。そう風に思っていたのに…。
医師 「気管支炎ですね」
キリコ 「……え? あの…咳をし始めたのはお昼過ぎからで…。それまで鼻水も咳も出てなくて…」
医師 「体力が低下しているときに風邪をひくと、重症化しやすいんですよ。今日は吸入機も貸し出ししますので、使ってください。気管支炎がひどくなって肺炎になると入院ってことにもなりますから」
キリコ 「………はい」
医師に言われた「体力が低下しているとき」がずっと頭の中でループしてる。
今週、どうにか原稿を仕上げようと必死で、奏太を昼寝させようと必死で、長い時間お外遊びをさせてた。今日だって風が強い中を連れまわしちゃった。私のせいだ。
自己嫌悪に陥りながら、私は現状を夫にメッセで伝えた。
夕方までに原稿を、という思いは消えてない。でも咳が苦しくて泣いている奏太を一人寝かせておけるわけがない。
ジ・エンド。
私は奏太の背中をさすりながら、鼻から思い切り息を吸い込んで神林に電話を掛けた。
神林 「お世話になっております、RAIRA編集部 神林です」
キリコ 「…お疲れ様です」
神林 「お疲れ様です。どうかしましたか?」
キリコ 「あの…実は…息子が…気管支炎になってしまって」
神林 「えぇ」
キリコ 「それで…その…〆切って延ばせないでしょうか。…あの…もし今晩時間がもらえるなら」
神林 「急ぎってお伝えしていたと思うので、それは難しいですね。まったく書き終わってないんですか?」
キリコ 「いや、一応…書いたものはあるんですけど、そのままサイトに載せるレベルでは…」
神林 「こっちで修正するので、とりあえず今あるものを出してもらえますか? お願いします」
キリコ 「…あぁ…はい。ご迷惑をおかけしてしまって、本当にすみませんでした。また何かありましたらぜひお…」
神林 「はい、じゃあお疲れ様でした」
電話が切れ、一気に体の力が抜ける。
キリコ 「…奏ちゃん、ちょっと待っててね」
奏太 「…うん」
リビングからノートパソコンを取り、寝室に戻ると、私は現状の原稿を神林に送った。
こんな中途半端なものを提出したのは初めてだ。
もう依頼こないだろうな。苛立っている神林の顔が浮かんで、ふっと笑う。
一体、今週はなんだったのか。
パパが自分で洗濯したと思われるシャツがカーテンレールに吊るされ、床には抜け毛やほこりが見える。家事をおろそかにしただけで、私は何も成し遂げられなかった。
なにをどうしたらよかったんだろう。誰か教えて欲しい。
奏太 「ごほっ、ごほっ…。ママ…」
キリコ 「なぁに?」
奏太 「…お茶のみたい」
キリコ 「うん」
お茶を飲ませ、吸入器をして、時間が過ぎて、奏太の咳が少しおさまってきた。
やっと眠りにつけた奏太の髪を撫でたあと、私はリビングのこたつに入った。
18時か。…あの記事、もうアップされたのかな?
見たいような見たくないような気分で私はRAIRAのサイトを見に行く。
キリコ 「………うわー、ほぼ丸々修正されてる。ははっ。私が書いた部分ないじゃん」
こんなこと初めてだ――。
私はスマホを床に放り投げると、こたつに突っ伏して少し泣いた。
まさかパパも同じころ、傷ついているなんて思いもせずに。
▶︎▶︎ 次回、第6話は、2/23(金)公開予定!