まいどおおきに!さとえみです。
前回の記事でご紹介したように、できる限り家にいてくれるようになった旦那ハーン。
家事はそこそこやってくれたのですが、私が産後にできるだけやって欲しいと思っていたのが、
「“放置”以外の方法で、ちゃんと子どもを見る」ということでした。
育児とは、どんなに志を高くしても、重労働には変わりないもの。
新生児の頃は特に、お世話をする妻も夫もだんだん疲れてきますし、「慣れ」とともに「飽き」もくることでしょう。
生後3ヶ月を過ぎたあたりから、赤子が“おっぱいのある方の保育者”を好み始め、それ以外の人を拒否するようになり…
それに便乗するかのように、旦那ハーンにも、やんわりとした育児への遠慮(あきらめ)が…。
そう…自他ともに認める“イクメン”な旦那ハーンでも、この言葉は出ました。
むしろ、イクメンだったからこそかもしれない。
「(母乳を出している)おっぱいには敵わないヤン」
「父親に出来ることは限られてるヤン」
「やっぱり育児は母親の方が向いているヤン」
一瞬納得しそうになる言葉たち。
でも…
だが!しかしやで。
(さとうは感情が高ぶると大阪弁になります)
その頃の私といえば、眠くて仕方ないほどに疲れがたまっている時期。
赤子の体重も新生児の頃と比べて格段に重くなり、身体的な負担も相当でした。
「ずっと家にいるけど、子どもの相手をしないパートナー」を許容できるほど、精神力も体力もなく…
私が泣いたり切れたりすると、途端に話し合いができなくなるため、ここは理論的に話さざるをえませんでした。
もちろん世の中、“向き不向き”も、実際にあるのだろうとは思いますが…
他に頼れる人がいない身としては、
「自分と同じレベルに達しなくてもいいからやって欲しい」
「っていうかやらんかい!!やってたらそのうちなんとかなるやろおおおおおおお」
…ってなものでして。
そういうのをオブラートに包みまくって言ってもなかなか伝わらなかったので、この「1万時間の法則」のアプローチに切り替えました。
これは、「1万時間もかけて何かを習うと、必ずある程度の水準までレベルがあがっていく」という法則。
“不向き”と言うかもしれないけど、ただ単に練習時間が不足している、ということが世の中にはたくさんあるということです。
で、結果的にどうなったかというと、1コマ目のような育児のエキスパートが誕生してました。
一般に言われる「パパイヤ期(ママじゃないと嫌期)」もあるにはありましたが、とても短かったように記憶しています。
いや〜、あの時、なしくずし的にすべての育児を引き受けなくてよかった…。
「育児は母親じゃないと!」なレッテルをそのままにしなくてよかった…。
と、今は思っています。旦那ハーン本人のためにもね。
実際の話し合いは漫画のようにサラッとは終わらず、けっこうな時間も胆力もいりましたが…。
もちろん、当時はそんなことを一ミリも考えずにただひたすら必死にもがいていただけなんですけどね。
先見性…ないですけどね。
みなさんの参考に…ならないかもしれませんけどね。
頭の片隅にでも置いておいてもらえると、嬉しかったりします。
前回ご紹介した、「できる限り、夫に家にいてもらうようにした」という話はこちらの記事。
前回と今回の記事に共通する裏テーマは、「夫婦の話し合いの大切さ」でもあります。
できるだけ早く、納得できるまで深く、しつこくならない程度に多く…。
話し合うことの大切さは、家事育児に関係なく、人種や文化や言葉の壁なども関係なく、語っていきたい大事なテーマです。
ほなまたやで!